日本の裁判対策
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終戦後、日本では自主裁判も構想されたが、美山要蔵の日記にもあるように残虐行為の実行者のみが裁判の対象となってしまい、戦犯裁判は戦勝国による「勝者の裁き」であるとの覚悟があったとされる。 1945年(昭和20年)10月3日、東久邇宮内閣は「戦争責任に関する応答要領(案)」を作成し、その後11月5日終戦連絡幹事会は「戦争責任に関する応答要領」を作成し、天皇を追及から守ること、国家弁護と個人弁護を同時に追求すると書かれた。 外務省外局終戦連絡中央事務局主任の中村豊一は同年11月20日、戦犯裁判対策を提言し、弁護団、資料提供、臨時戦争犯罪人関係調査委員会の設置、戦争犯罪人審理対策委員会を提言したが、外務省は政府指導になるという理由で却下した。 その後、吉田茂が12月に法務審議室を設置した。翌1946年(昭和21年)2月には内外法政研究会が発足し、高柳賢三、田岡良一、石橋湛山らが戦争犯罪人の法的根拠や開戦責任などについての研究報告をおこなった。 また意外なことに巣鴨拘置所では裁判前の尋問段階から収監者どうしの会話は自由でいくらでも口裏を合わすことが可能であった。そのためか、個々の人間の裁判に対する姿勢は諦観に包まれて殊更争おうとはしないものなどもいて差異もあったものの、全員がこれを法戦ととらえ、無罪を主張することでは一致していた。また、暴力行為や右翼で名を知られた者も多いBC級戦犯もともに収監されており、橋本欣五郎などはそのような取り巻き3、4名がいたのを刑期中のことであるが見られている。このことから、裁判の進行にしたがって個々人の戦略のズレや責任の押し付け合いなどはある程度あったものの、幾多の隠蔽や欺瞞が行われ、多くの真相が隠され、あるいは偽られたことは想像に難くない。
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