日本のアルミ製錬の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 03:16 UTC 版)
「日本のアルミニウム製錬」の記事における「日本のアルミ製錬の始まり」の解説
1926年6月15日、第1次若槻内閣の片岡直温商工大臣により、三井鉱山・三菱鉱業・住友鉱山・藤田鉱業・古河鉱業・大成化学の6社からなる「アルミニウム工業促進協議会」が設立された。片岡の「東京渡辺銀行が破綻した」との失言により若槻内閣は崩壊し、「アルミニウム工業促進協議会」は解散。1930年7月に「アルミニウム製造事業諮問委員会」として復活するが、その間に古河電工・東海電極・大成化学により「三社アルミニウム協議会」が設立された。三社アルミニウム協議会は日本アルミニウム・シンジケートを経て、日本アルミニウム株式会社に発展し、1936年11月より台湾の高雄でアルミ地金の生産を開始している。 森矗昶が主宰する森コンツェルンの中核である日本電気工業は、千曲川の水利権を使用して発電事業を行う東信電気の低廉な電力を活用してアルミ製錬事業への進出を決断した。1933年3月に長野県大町に敷地を購入し、昭和アルミニウム工業所を開設。同年8月には電解炉のライニングを完了。横浜市神奈川区恵比須町には、同年に日本アルミナ横浜工場が建設された。原料には石原産業が調達した、マレーシアジョホール州産のボーキサイトを使用している。両社は1934年1月に日本沃度に統合され、同年3月に日本電気工業に社名変更。1939年に昭和肥料と合併し、昭和電工となった。 住友財閥とアルミニウム産業とのかかわりは、1898年より住友伸銅所が大阪砲兵工廠の軍用品の生産を請け負ったことに始まる。住友は、1929年に兵庫県飾磨の浅田明ばん製造の浅田平蔵が開発した、明礬石から製造したアルミナを原料とするアルミ製錬を目指し、1934年6月30日に、住友合資34.4%、住友伸銅25%、住友肥料製造15%、浅田25%の出資により住友アルミニウム製錬株式会社を設立。1935年末には愛媛県新居浜市に製錬工場を完成させたが、浅田が所有していた朝鮮の玉埋山の明礬石の埋蔵量が乏しかったこともあり、1936年半ばまでアルミナが供給されず、その後も海軍省から「住友のアルミニウムは航空機用ジュラルミンに適さない」との烙印を押されたことから、1937年からボーキサイトを原料とするバイヤー法に転換した。同じ1937年には、日本曹達高岡工場がアルミナの製造とアルミニウムの製錬を開始している。住友化学、昭和電工など化学メーカーが事業主体となることが多かったが、住友法の場合は化学肥料の原料となる硫酸カリウムが副産物として得られる理由もあった。 1939年には、既存のアルミ製錬会社の反対の中、日本軽金属株式会社設立。東京電燈502890株、古河電工500000株で、この2社の合計が総株数200万株の半数を占めた。東京電燈傘下の富士川電力と、大井川上流の水力発電の電力の利用を考えていたが、逓信省や日本発送電の承諾が得られず、新潟にも工場を建設して阿賀野川の電力も使用することとなった。
※この「日本のアルミ製錬の始まり」の解説は、「日本のアルミニウム製錬」の解説の一部です。
「日本のアルミ製錬の始まり」を含む「日本のアルミニウム製錬」の記事については、「日本のアルミニウム製錬」の概要を参照ください。
- 日本のアルミ製錬の始まりのページへのリンク