日本のアルミニウム製錬の終焉
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「日本のアルミニウム製錬」の記事における「日本のアルミニウム製錬の終焉」の解説
1973年度のアルミ地金の日本国内の内需量は世界第2位の167万トンに達した。アルミ地金の日本国内の生産量がピークに達したのは、6社14工場体制となった1978年度で、アメリカ合衆国に次いで西側諸国で第2位の164万トンに達した。1973年のオイルショックでは、それまで1バレル2ドル程度だった原油価格が1973年度平均で4.8ドル、1974年度には11.5ドルまで上昇した。さらに1979年の第2次オイルショックによって、1981年度平均では36.9ドルまで上昇するに至った。これにあわせて電力価格も上昇し、キロワット時あたりの単価は1973年の4円から1974年には8円、1980年には17円まで上昇し、「電気の缶詰」と称されるほど原価に占める電力費の比率の高いアルミ製錬は採算性を失っていった。これに加え、円相場も1973年前半の1ドル308円の固定相場から1978年には180円を突破し、輸入品との競争力も不利になっていった。産業構造審議会は設備廃棄を進め、1977年に125万トン、1978年に110万トン、1981年に70万トン、1984年に35万トン体制にして生き残りを図ったが功を奏せず、企業の自助努力も限界に達した。1987年3月には三井アルミ三池工場操業停止によって、3.5万トンの年間生産能力を有する日本軽金属蒲原工場1か所を残すのみとなった。蒲原工場が生き残ったのは、戦時下の電力統制により、発電部門を別会社としていた昭電や住友の水力発電所が日本発送電に吸収されたのに対し、日軽金は水力発電設備を製錬工場の一部として扱っており、再評価に時間を要したため、買収されず自社に残っていた事情があった。その蒲原工場も、施設の老朽化のため2014年3月末で製錬事業から撤退。日本のアルミニウム製錬事業80年の歴史の幕を下ろした。数兆円に及ぶ設備投資はわずかな期間に失われたが、化成直江津直江津工場の製錬設備は中国の寧夏回族自治区青銅峡市、昭和軽金属千葉工場の製錬設備は中国の甘粛省白銀市の工場に売却された。昭和電工社長の鈴木治雄は、座談会において「アルミは安い水力発電がないとだめだ。日本で製錬を行うのは北海道でサトウキビを作るようなもので、国の政策の良し悪しではない」と述べている。
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