新人の発掘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 03:50 UTC 版)
フィリップスとプレスリーは新しい音楽の形を形成した。フィリップスはプレスリーについて「エルヴィスはバラードも歌うし、それはとても素晴らしい。エルヴィスとロイ・オービソンはどちらも泣けるバラードを歌う。しかしもしエルヴィスをバラードでデビューさせていたら、エルヴィス・プレスリーはここまで売れていなかっただろう」と語った。 フィリップスは「新たな独特なアーティストの育成、音楽業界の自由性、まだ売れていない歌手を世に送り出すためにふらりとやって来た」と語った。 プレスリーはフィリップスのスタジオでアーサー・クルダップの『ザッツ・オール・ライト』をレコーディングし、最初はメンフィスで、その後アメリカ合衆国南部で大きな成功をおさめた。1954年にプレスリーはフィリップスのオーディションを受けたが、この曲を歌うまではフィリップスはプレスリーからそれほどの大きな印象を受けなかった。最初の6ヶ月、ビル・モンローのブルーグラスをアップビートにしたB面の『Blue Moon of Kentucky 』が『ザッツ・オール・ライト』よりやや人気があった。南部以外では知られていなかったが、プレスリーのシングルと彼の成功はサン・レコードの目玉となり、その後すぐに地域を越えた人気となった。ソニー・バージェス(『My Bucket's Got a Hole in It 』)、チャーリー・リッチ、ジュニア・パーカー、ビリー・リー・ライリーがサンでレコーディングを行なってヒットし、ジェリー・リー・ルイス、B.B.キング、ジョニー・キャッシュ、ロイ・オービソン、カール・パーキンスは大スターとなった。 地域的に人気となったにも関わらず、1955年半ばまでにフィリップスのスタジオは経済危機に陥り、11月に2万5千ドルをつけたアトランティック・レコードより高額な3万5千ドルをつけたRCAレコードにプレスリーとの契約を売却した。プレスリーとの契約の売却交渉中、パーキンスの『ブルー・スエード・シューズ』が全国的な大ヒットとなった。 1950年代終盤、プレスリーとの契約を売却してから多くのアーティストが彼の元を離れ、メンフィスの音楽業界での地位を取り戻すことができなくなった。 これまでの経験を活かし、RCAビクターでプレスリーの育成担当となった。スティーブン・H・ショールズがRCAへ移籍後のプレスリーの公式プロデューサーであったが、プレスリーはフィリップスから学んだやり方で多くの曲を演奏していった。 フィリップスはオープン・スタイルを採用しており、ミュージシャン、特にプレスリーを育成する上での洞察力があり、発掘して長所を活かして可能性を引き出した。またアーティストがいつ最高の演奏ができるのかを感じ取るセンスを持っていた。フィリップスは技術的完璧さよりも感覚を大事にレコーディングをしていた。フィリップスはプレスリーに完璧にしようとするなと語った。フィリップスは常に自分にとっての完璧/未完全を考えていた。これは技術的なことではなく、曲の感覚や感情をいかに完璧に伝えるか、技術的に未完全であっても曲に命を吹き込むことを重要視していた。 フィリップスはプレスリーのレコーディングで革新的技術を試した。当時の多くのレコーディングではヴォーカルの音量を上げていた。しかしフィリップスはプレスリーの音量を抑え、伴奏とマッチさせた。またテープ・ディレイでエコーがかかるようにした。フィリップスの技術を知らなかったRCAは『ハートブレイク・ホテル』のレコーディングで同様のエコーを再現することができなかった。サン・レコードの音を再現する試行錯誤の過程でRCAはスタジオの誰もいない広い廊下でエコーを作り出そうとしたが、フィリップスが作り出したサン・レコードのような音にはならなかった。 プレスリーがサン・レコードにやって来た時には彼のバンドはなかった。フィリップスはプレスリーにはリズム・ギターが必要と考え、リード・ギター奏者にスコティ・ムーア、ベース奏者にビル・ブラックを選んだ。ドラム奏者のD・J・フォンタナを加えたこの選択は、フィリップスがプレスリーとの契約をRCAに売却した後でさえも『ハートブレイク・ホテル』、『ハウンド・ドッグ』、『Don't Be Cruel 』などロックンロール史上最大のヒット曲を何曲も生み出した。 ロックンロール黎明期のフィリップスの重要な役割は1954年12月4日、『ミリオン・ダラー・カルテット』で実証された。フィリップスのスタジオでジェリー・リー・ルイスがカール・パーキンスのレコーディング・セッションのピアノを弾いていた。プレスリーが不意に立ち寄り、フィリップスはジョニー・キャッシュを呼び入れて4人の即興セッションをリードさせた。 フィリップスはこの4人に、最初にゴールド・レコードを獲得した者にキャデラックを無償で与えると約束し、カール・パーキンスが獲得した。この出来事はドライヴ・バイ・トラッカーズの2004年のアルバム『The Dirty South 』に収録された曲『Carl Perkins' Cadillac 』に描かれている。 1960年代中盤、フィリップスはあまりレコーディングを行なわなくなった。サテライト・スタジオを建て、ラジオ局を開設したがスタジオは下降を始め、1968年、サン・レコードをシェルビー・シングルトンに売却した。
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