新ペルシア語の展開
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651年にサーサーン朝がイスラム帝国(正統カリフ期)に滅ぼされてから200年ほどの間は、ペルシア語の文献は残っておらず、書記言語としてはアラビア語が用いられていた。ペルシア語そのものは、752年ごろのアフガニスタンの墓碑銘に残っており、他にもいくつかの文が断片的に発見されているが、これらはいずれもヘブライ文字などで書かれていた。しかし9世紀にはアラビア文字でペルシア語を書くことが一般化していったと考えられている。アッバース朝の衰退に伴って9世紀末ごろにホラーサーンに興ったサーマーン朝においてペルシア語は詩作に用いられ、ここからペルシア語は文章語として栄えるようになり、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』、オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』、ニザーミーの『ホスローとシーリーン』などに代表されるペルシア文学が花開いた。サーマーン朝においてペルシア語は行政言語として用いられるようになり、以後東イランから中央アジアにおいて次々と興っていったイラン系の王朝もこれを踏襲した。また歴史・哲学などの学術書もこの言語で記された。 ペルシア語は、ペルシア語の母語話者以外にも広くリンガ・フランカとして用いられた。10世紀以降に中央アジアを支配したテュルク系民族は、ペルシア語を行政用語とし、ペルシア人の官僚を使用した。ガズナ朝やセルジューク朝のようなテュルク系の王朝がイランを支配しても、その状況は変わらなかった。オスマン・トルコ語やチャガタイ・トルコ語などのテュルク系の言語による文語が発達した後も、近代までペルシア語は併存しつづけた。そもそもオスマン語やチャガタイ語自体が、ペルシア語の強い影響を受けて成立したものだった。また、ティムール朝をはじめとする中央アジアの諸王朝は、ペルシア系・トゥルク系を問わずペルシア語を公用語として使用し続けた。さらに、ガズナ朝のインド侵攻以降デリー・スルターン朝やムガル帝国といった、中央アジアに起源をもつインド王朝が続き、これらの王朝は南アジアでペルシア語を公用語とした。このため、現代においてもウルドゥー語はペルシア語からの影響が非常に強く、帝国の領域に入ったベンガル語などにもペルシア語の語彙が流入した。オスマン帝国においては公用語はトルコ語系のオスマン・トルコ語であり、公的なペルシア語の重要性はやや低下したものの、文化言語としてはいまだに広く使用される言語のままだった。こうして、10世紀から19世紀前半にかけてはイラン高原を中心に西は小アジアからメソポタミア、北は中央アジアのマー・ワラー・アンナフル(アム川・シル川流域)、東はインド亜大陸にかけて広がる広大なペルシア語圏が成立していた。 しかしこのペルシア語圏は、ムガル帝国に代わってインドを支配したイギリスが1835年に英語を公用語としたこと、中央アジアにおいてブハラ・ハン国やコーカンド・ハン国を滅ぼしたロシア帝国が同じくロシア語を公用語としたこと、そして民族主義の勃興によってこれら地域の諸民族が現地の言葉を優先して使用する傾向が強まったことから、19世紀以降大幅に縮小し、ペルシア系民族の優勢なイラン・アフガニスタン・タジキスタンの3か国が主な現代の使用地域となった。 フェルドウスィーの頃のペルシア語にはアラビア語の影響は少なかったが、時代が下るにつれてアラビア語からの借用語が増え、また文語と日常語の間の差が大きくなった。これに対してペルシア語の近代化の運動が行われ、1903年にはペルシア語純化のための最初のアカデミー会議が持たれた。パフラヴィー朝の建国者であるレザー・パフラヴィーは1928年にイラン言語アカデミーを設立してペルシア語の近代化に努め、この過程においてアラビア語や西洋の言語からの何千もの借用語を人工的に固有語に置き換えた。
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