新ペルシア語とアラビア語の文献
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/23 01:09 UTC 版)
「パーパク」の記事における「新ペルシア語とアラビア語の文献」の解説
パーパク、サーサーン、および初代のサーサーン朝の君主であるアルダシール1世(在位:224年 – 242年)の間の関係についてはさまざまな情報源が存在する。中世ペルシアの詩人フェルドウスィー(1020年没)の作である『シャー・ナーメ』(王の書)によれば、サーサーンは神話上の王朝であるカヤーン朝(英語版)の君主、ダーラー1世(英語版)、ダーラー2世、カイ・バフマン(英語版)、エスファンディヤール(英語版)、およびヴィシュタスパ(英語版)の子孫である。カヤーン朝の一族に属するというサーサーンの主張には、アルダシールがアケメネス朝の記憶を反映した古代カヤーン朝の王たちの子孫であることを正当化する意図が含まれている。 アレキサンダー大王の前に統治した最後のカヤーン王ダーラー2世の記述は、実際にアレキサンダー大王に征服されたアケメネス朝の最後の王ダレイオス3世(在位:紀元前336年 - 紀元前330年)に部分的に依拠している。ダーラー2世の息子のサーサーン(「年配者」と呼ばれる)はインドへ逃れ、追放された身のまま亡くなるまでインドで暮らした。彼は同じようにサーサーン(「若年者」と呼ばれる)と名付けられた息子を残し、「息子の家系は4世代にわたって続いた」。同様にサーサーンの名を持った一族の末裔は、パールス地方の支配者であったパーパクに仕えた。パーパクの娘はサーサーンと結婚し、アルダシールという名前の息子を産んだ。その後はサーサーンについてもはや言及されなくなる。このように、シャー・ナーメはサーサーンの先祖がアレキサンダー大王の征服後にインドに居住していたことを示している。この記述は、学者がサーサーンのインドとパルティアとの関連性を指摘するために引用されてきた。 中世ペルシアの歴史家であるタバリー(923年没)によれば、パーパクはサーサーンとパールスの小王国の王家であるバーズランギー家(英語版)の王女ランビヒシュトとの息子であり、アルダシールの父であると説明している。シャー・ナーメの作者であるフェルドウスィーと同様に、タバリーもサーサーンをパールスにおける外国人であったと説明しているが、フェルドウスィーとは異なりサーサーンの出身地については言及していない。
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