教会堂の歴史
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「聖アンネン教会 (ダーレム)」の記事における「教会堂の歴史」の解説
聖アンネン教会はダーレム村の教会として設立され、1215年から1225年の間に木造建築の最初の教会堂が建てられたと推測される。1300年前後に石造りの教会堂に改築された。15世紀末に後期ゴシック様式の主祭壇部分と納骨室が教会堂北側に加えられた。30年戦争時、教会堂は焼失した。 教会堂建築の歴史は6段階に区分される。 1215年から1225年の間に、今日の教会の敷地から長方形の教会堂として木造で建築されていたと推測される。ダーレム村は1375年に初めて文書に記述された。 1300年頃、木造建築だった教会堂が石造りの教会堂に改築された。約2メートルの珪長岩による基礎土台上に煉瓦の壁が築かれた。教会堂北側に半円アーチ型の窓、尖頭アーチを持つ典型的なゴシック様式の建物になった。 1490年頃、大きな幾何学模様装飾(トレーサリー)を持つ後期ゴシック様式小祭壇が設置された。南側入り口は費用と時間をかけたものになった。後期ゴシック様式の納骨室が1504年から1507年にかけて増築された。外壁上部の縁取りの上に彫り込んだ装飾帯が付けられた。30年戦争時に、教会は建物各所においてひどい損傷を被った。 1679年に再献堂式が行われた時に、2階席と後期ルネサンス様式の木造の説教壇が置かれており、教会堂内部に関して今日の形態を持つに至った。壁面フレスコ画が2階席取り付けと尖頭アーチ窓出現によってひどく傷んでしまった。その後、ローマ・カトリック教会時代からの相続品であった壁面画は体裁を繕った。1832年から1849年まで、この教会塔はプロイセン光学電信ベルリン-コブレンツ線の第2番中継局として共同利用されていた。その時は鐘楼の上に正方形型ボックスが載せられていた。信号用マストを持った展望用台座が置かれていた。通信工学の発展に伴い、中継局の役割を終えていた1853年以降、かつてあった電信関係詰所の上に小塔が置かれた。 ヴィルヘルム2世統治期の1905年から1906年の間に、ダーレム地区の人口急増に対応して教会は改築をおこなった。礼拝出席者増加に対応する施策(教会堂内座席増)はこの時点でおこなわれた。電気照明と換気装置付き温風暖房が据えつけられた。同時に、納骨室が香部屋(牧師服置き場)に変更された。1892年の改築時に木製のドアであった南側入り口は壁でふさがれた。第2次世界大戦終末時のベルリン市街戦によって教会堂は深刻な被害を受けた。教会塔と鍾架は打ち砕かれ、教会堂屋根の煉瓦も失われた。榴弾の炸裂によって、西側壁面には大きな穴が出来た。 1945年から開始された教会堂全体に及んだ修復作業は1953年まで続けられた。この時期、教会はピラミッド型の教会塔を整備し、オルガンのある教会堂2階部分のために中間支柱を補強している。1913年に、ダーレム村教会は聖アンネン教会と名乗るようになった。聖アンナは聖母マリアの母であり、イエス・キリストの祖母であり、神の恵みと母の慈愛の頂点に位置していると見なされている。
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