教会大分裂と公会議主義
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「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「教会大分裂と公会議主義」の解説
教皇グレゴリウス11世は教皇庁をローマへ戻し、アヴィニョンの時代は終わったかに見えた。グレゴリウス11世の死後、教皇選挙でウルバヌス6世が即位することとなった。ウルバヌス6世は当初官僚的で温厚な人物だと考えられていたが、即位すると枢機卿に対し強圧的になった。その結果フランス人枢機卿がまずローマを去り、イタリア人の枢機卿たちも結局はこれに従った。彼らはしばらく教皇と交渉と試みたが、埒があかないことを悟ると、一転してフランス王の甥にあたるクレメンス7世を選出し、アヴィニョンに拠った。ここにローマとアヴィニョンに2人の教皇、2組の枢機卿団が並立する長い教会大分裂が始まった(1378年〜1417年)。 ヨーロッパの主要国は一方の教皇を支持して分裂したが、このことは民族を中心にまとまり始めた各国家の利害が教会の内部の問題にも介在するようになったことを示していた。事実両教皇の死後も教権の分立状態は解消されず、主にフランス王権と神聖ローマ皇帝権の意を受けたそれぞれの教皇が並び立つこととなった。ローマではウルバヌス6世が死ぬと、ボニファティウス9世が跡を継ぎ、アヴィニョンではクレメンス7世の死後にはベネディクトゥス13世が即位した。このベネディクトゥス13世はフランス教会への支配を徹底しようとして、パリ大学を中心とするフランス人聖職者の反発を招き、フランス教会のガリカニスムの傾向をますます強めることとなった。 このような混乱のなか、譲歩しようとしない両教皇の態度に業を煮やした両教皇庁の枢機卿団は、公会議を開いて新しい教皇を選任し、この分裂を解消しようという動きを取り始め、公会議派が形成された。公会議派は1409年ピサ公会議を開き、両教皇の参加を求めたが受け入れられなかった。この公会議で公会議派は両教皇の廃位を宣言し、新たにアレクサンデル5世を選出した。これに対し、ベネディクトゥス13世はペルピニャンで、グレゴリウス12世はチヴィダーレでそれぞれ自派の公会議を開き、ピサ公会議の決定を受け入れなかったので、ここに3人の教皇が鼎立することとなった。アレクサンデル5世は1年後に亡くなり、そのあとはヨハネス23世が継いだが、この教皇の評判は芳しくなかった。 このときにあたって、ルクセンブルク家の皇帝ジギスムントは、教会の再統一に積極的な姿勢を見せ、ヨハネス23世を説得し、グレゴリウス12世の同意もとりつけて1415年にコンスタンツ公会議を開いた。このコンスタンツ公会議ではイングランドとフランスが百年戦争中で長い対立の中にあったこともあって、国民的な単位に基づく異例の投票形式が採用された。すなわち公会議での決定は個人単位ではなく、イングランド・フランス・ドイツ・イタリアの4つの出身団(ナツィオ、"natio")によりおこなわれ、1417年からはスペインの出身団と枢機卿団が加えられて投票権を持つ集団は6つとなった。公会議の途中で教皇ヨハネス23世は出奔し、公会議は召集権を持つ教皇を失って一時危機を迎えたが、公会議派が中心となって公会議の決定が教権に優越することが主張され、公会議は教令「サクロサンクタ ("Sacrosancta")」を発してその正当性を保持することに成功した。 しかし会議は難航した。フスなどの異端運動に対する問題や、教会改革を声高に主張する急進者と反発する保守派、そして国民間の対立や神学者同士の理論上の対立が持ち込まれることもしばしばであった。さらに公会議に教皇の選任権があるのかという問題も紛糾した。とにかくこの公会議はさまざまな論争と政治的駆け引きに翻弄され、長引いたものの、鼎立した3人の教皇を廃位し、あらたにマルティヌス5世が選任されることで一致した。こうして教会大分裂は終わったが、一連の過程のなかでもはや普遍的であると信じられていた教会のなかでさえ、国民性が影響力を増していることが明らかとなった。教会大分裂の時代にもカトリック教会の統一が維持されたことは、普遍的な教会が未だ求心力を失っていなかったことを示しているが、国民的な単位を通して世俗の権力が教会に対する支配を強めたことは確かであった。 教会大分裂主な教会会議ローマ教皇庁アヴィニョン教皇庁公会議派 ウルバヌス6世 (1378-1389) クレメンス7世 (1378-1394) ボニファティウス9世 (1389-1404) ベネディクトゥス13世 (1394-1417) インノケンティウス7世 (1404-1406) ピサ教会会議 (1409年) グレゴリウス12世 (1406-1415) アレクサンデル5世 (1409-1410) コンスタンツ公会議 (1414-1418) ヨハネス23世 (1410-1415) マルティヌス5世 (1417-1431) 現在の教会史では、ローマ教皇庁の教皇(図の黄色)を正統として数え、それ以外の教皇は対立教皇としている。(M・D・ノウルズほか著、上智大学中世思想研究所編訳『キリスト教史4 中世キリスト教の発展』講談社、1991年などを参考に作成) [先頭へ戻る]
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