政府による名誉回復
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1991年(平成3年)10月には、ソビエト連邦の崩壊を受けたリトアニアとの国交樹立に合わせ、当時の鈴木宗男・外務政務次官が幸子夫人を招き、「杉原副領事の人道的かつ勇気ある判断を高く評価し、杉原副領事の行動を日本人として誇りに思っている」とし、併せて、半世紀にわたり外務省と杉原副領事の家族との間で意思の疎通を欠いていた無礼を謝罪した。 この名誉回復に際し、鈴木政務次官は、当時の佐藤嘉恭外務省大臣官房長から、千畝の退官は「日本の降伏に伴う外務省の大規模の大規模なリストラの一環でなされたもので、懲戒処分ではないため名誉回復の必要もなく、むしろこの問題には触れない方が得策である」との旨説明を受けたが、なおも名誉回復の必要性を説き、最終的に佐藤官房長から、鈴木政務次官への一任を得たと証言している。なお、2006年3月24日の小泉純一郎総理大臣の答弁書(内閣衆質164第155号)でも、外務省には懲戒処分の証拠文書がないとされている。 しかし、当時外務省在モスクワ大使館に在職していた佐藤優は、その後刊行した『国家の罠』(2005) において、その名誉回復すら「当時の外務省幹部の反対を押し切」ってなされたものであったとし、千畝の不服従に対する外務省関係者の執拗な敵意の存在を証言している。 「外務省が詫びる必要はない、と会談そのものに反対したという」などと『朝日新聞』(1994年10月13日付)で取り沙汰され、杉原の名誉回復に反対したと一部マスコミで報じられた当時の外務事務次官小和田恆(元国連大使)は、「そういう報道は心外です。私としては、反対したという記憶はありませんし、私自身の考え方からしても反対するはずがない」とし、自身が杉原領事の立場にいたらどうするかという『AERA』(2000年11月13日号)の取材に対して、「組織の人間として訓令に従うか従わないかは、最終的にその人が良心に照らして決めなければならない問題」と答え、千畝の行為に一定の理解を示した。 1992年(平成4年)3月11日の第123回国会衆議院予算委員会第二分科会において、草川昭三議員の質問に対して、兵藤長雄・外務省欧亜局長は、「確かに訓命違反、その時の服務命令の次元で考えればそうであったけれども、しかしもっと大きな次元で考えれば、(…)数千人の人命を救うかどうかという、より大きな問題がそこにかかわっていたということで、結果的に見れば我々もこの話は美談だったというふうに今見るわけでございます」と、確かに「訓命違反」ではあるが、「数千人の人命を救うかどうかという、より大きな問題」があったとして、切迫した状況における杉原領事の判断を支持した。 2000年(平成12年)、当時の河野洋平・外務大臣の顕彰演説によって、日本国政府による公式の名誉回復がなされた。それは、千畝の没後14年目、そして生誕100年という節目のことであった。 2019年10月21日に「杉原千畝記念財団」が杉原が参議院に提出した履歴書と人事記録を発見したと発表。履歴書によると、外務省の退職については依願退職であった事が判明した。
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