推測された使用法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 10:36 UTC 版)
「ネブラ・ディスク」の記事における「推測された使用法」の解説
三日月(四日または五日月と思われるが、ここでは便宜上三日月と呼ぶ)と推測される意匠の右側に金の弧枠が張られ、かつてはその反対側にも同じ弧枠が張られていた痕跡が残っている。 このディスクの使い方について研究された結果、春分・秋分の日に太陽の沈む位置を三日月側の弧枠の中央へ合わせると、冬至には弧枠の左端に、そして夏至には弧枠の右端に太陽が沈むことが判明した。日の出の場合は、春分・秋分の日に太陽が上る位置を弧枠の中央に合わせると、冬至では弧枠の右端が、夏至では弧枠の左端が太陽の上る位置となる。その弧の中心角は82~83度であった。これは、1年を通じて、日の入りまたは、日の出時の太陽が地平線に描く軌跡と一致した。さらに、夏至時に、この場所から見ると夕日が北部ドイツ高地ハルツ山脈最高峰ブロッケン山(標高1,141m)に隠れるため、天象観察に使われていたことに確信が生まれた。また、ケルト時代に、バルテン(Baltaine)祭りとして知られる5月1日の春祭りの日には、太陽は、ハルツ山脈南部のキフホイザー・マシーフ(塊状岩山地)の最も高い丘であるクルペンベルク(標高473.6m)の背後に沈む。そして降霜は、この日に終わる。春祭りは、今日ではヴァルプルギスの夜に受け継がれ、キフホイザー・マシーフは、生け贄の願掛けシャフトや伝説など古代の宗教的象徴となっている。 写真下部の金でできた湾曲した紐状の意匠は、古代エジプトの新王国時代に確立した信仰に基づくような太陽ボート(英語版)を表していると考えられている。 太陽の位置から日時を求める太陽暦とは異なり、太陰暦は月の位相によって日時が計算される。また、太陰年は12か月の朔望月(29.5306日)を基準とするため、太陽暦よりも約11日少ない354日で1か年となる。研究者の一人であるメラー博士は、ネブラ天文盤は太陰暦によって生ずる閏月、すなわち13か月目をいつに合わせるべきかを予測し、太陰暦と季節を同期させるために用いられていた可能性が極めて高いと結論した。メラー博士はさらに「この天文盤の機能は、当時でも極僅かな人々にしか知られていなかったと考えられます。最も驚くべきことは、青銅器時代の人々が太陽暦と太陰暦を組み合わせて使っていたという事実に他なりません。これは我々も予想だにしませんでした」と語った。 閏年規則は、バビロニアの楔形文字テキストのムル・アピン(英語版)(紀元前7/6世紀)から分かっている。このタブレットは、2枚見つかっているが、紀元前1370年頃に書かれたもののコピーであると考えられている。それには、「春の月の新月が、年の初めに、7つの星(すなわちプレアデス星団)の隣に現れるならば、普通の年です。しかし、月がこの月の3日目だけにプレアデス星団の近くに最初に現れるならば(月がより厚い三日月に満ちているとき)、閏年です。そして、うるう月をカレンダーに加えなければならない。」と記録されている。 また、農業にとっての暦としても使うことが出来ただろう、と推測されている。ネブラ天文盤に描かれた唯一の星団は“一緒に近くに置かれる7つの金のドットの1グループ”である。「これらは、プレアデス星団を表している」という見方に疑問を持つ識者はほとんどいない。世界各地で例がみられるように、ヨーロッパにおいてもプレアデス星団は農業の暦にとって非常に大切であり、3月10日の西の夕方の空に最後に見えたならば、種蒔きの始まりを意味し、10月17日の西の朝の空にこの星団が沈むときは、刈り入れが始まることを意味している。ネブラのスカイ・ディスクにおいてプレアデス星団は、3月の三日月と10月の満月の間、西の空に(中央ドイツの位置する緯度でのみ見える組み合わせで)描かれている。これにより、スカイ・ディスクは農民の1年の始まりと終わりの理想的な暦として使われることが出来たと考えられる。 また最近の解読説として、天文盤を頭の上に掲げ、空を見上げながら読む方法が挙げられている。
※この「推測された使用法」の解説は、「ネブラ・ディスク」の解説の一部です。
「推測された使用法」を含む「ネブラ・ディスク」の記事については、「ネブラ・ディスク」の概要を参照ください。
- 推測された使用法のページへのリンク