技術導入から改良標準化計画へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 16:17 UTC 版)
「日本の原子力政策」の記事における「技術導入から改良標準化計画へ」の解説
それまでの日本の軽水炉はもっぱらハード面での国産化を確立することに努力が注がれ、それなりに成果を挙げてもいた。例えば、新しい型式のプラントを導入する際、初号機の国産化率は50%台であったが、後続の同じタイプの炉だと80% - 90%台となる傾向が見られ、これは材料、制作、据付については世界の中で相対的に高いレベルを獲得したものと評価されていたが、設計、保守面では海外依存はまだ大きかった。 第一次オイルショックの直前にエネルギー安全保障の観点から設立されて間もなかった資源エネルギー庁でも技術水準の向上については意識しており、1974年度初頭には既に導入した軽水炉の問題点の抽出と対策についての基本構想が『電力新報』で述べられている。例えば、当時の問題意識としては軽水炉でのトラブルにより設備利用率が低迷したが、この背景には初期の原子力開発の方針が影響していた。つまり、国内メーカーの開発費はもっぱら高速増殖炉や高温ガス炉など、当時から短期間では実用の見込みがなく、「軽水炉の次に来る炉」から自主的に開発することに注がれ、既存の軽水炉についてはキャッチアップの方針の下海外メーカーの下請けとしての能力を伸ばすことに力が入っていた。ここで言う下請けとは「ノックダウン方式による製作技術の開発につとめてきたビヘイビア」を意味し、日系メーカー自らの問題意識を持って取り組む姿勢が発注元の電力会社の意向もあり摘み取られがちであったことを意味する。ただし、これには異論もあり、日本側で自主的な動きが一切見られなかったわけではない。 改良標準化については最初は「炉形式と出力規模をいくつかのクラスに分けて、大きな設計様式は変えることなく標準化し生産の品質管理や合理化を図る」ことに力点を置き、徐々に新形式の軽水炉設計にスライドしていく方向で計画が立てられた。また、日本で多数導入された軽水炉としては上述してきた経緯により大きくBWRとPWRに分かれるが、両形式において計画が実施された。計画実施の目的には名称に「標準化」と入っている通り、設計のモジュール化の他、改良成果を電力会社の垣根を越えて反映する意図もあった。ただし、森山義範のように「改良」と「標準化」という一見相反する目標を追求したと言う指摘もある。 また、耐震性や安全性の向上、着工してからの建設工期の短縮についても目標に掲げられている。計画には通産省、資源エネルギー庁の他、国内メーカー、電力会社が参加した。組織的には1975年、通産省内に発足した2つの委員会「原子力発電設備改良標準化調査委員会」「原子力発電機器標準化調査委員会」を始祖とする。 一方で、蒸気タービン、発電機関係技術については火力発電からの延長で発達した技術であり、当時の資源エネルギー庁長官、山本幸助は「問題は少ない分野」とコメントを残している。このように、「トラブルが起こっていない部分についてはそのままとし、トラブルが生じている部分や運転保守上不具合な部分について技術開発を進める」方針とした。逆に、発注者である電力会社は各社の好みを強く押すことを止め、要求仕様を共通化することが求められた。
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