技術官僚時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 22:45 UTC 版)
1945年10月、孫運璿は台湾電力の機電処長に就任、台湾電力の電力供給システムの修復を担当した。当時の台湾電力は同盟軍による空襲で甚大な被害を受けており、発電能力はかつての10%までに落ち込んでいた。旧台湾電力株式会社日本人技術者の協力を得て34名の中国人技術者、日本統治時代に活躍した朱江淮等と協力し、省立台北工業職業学校、台湾省立工学院の3、4年生を実地研修させながら修理を行い、5ヶ月の間に台湾島内の80%の電力供給を復旧させ、1946年10月30日に日月潭発電廠(現在の大観一廠)の戦後復興作業が終了にしたことを宣言している 1950年、国共内戦の結果遷台した国民政府は外貨準備高が枯渇し国家財政破綻の危機を迎えた。同年総工程師に昇格した孫運璿は各方面との折衝に当り、米国企業から200万アメリカドルの融資を受け、烏来水力発電所、台湾東西部送電連絡線、立霧発電所、新竹変電所などの設備を整備した。その中で台湾で初めて自力で設計・建築された烏来水力発電所は台湾の工業史の中で大きな意義を有した。これらの工業成果と、朝鮮戦争により米国政府が国民政府を反共勢力として重視したことで、米国により台湾の電力建設への積極的な支援が行われ1957年までに台湾の発電量は2倍に増加、その中で孫運璿は将来の台湾の発電は水力から火力になることを予想し火力発電所建設が推進された。 その後台湾電力総経理に就任した孫運璿は、米国政府の「大甲渓総合開発計画」への支援を獲得、徳基ダムの建設やMOB方式による会社制度の確立と農村の電化を推進し、当時の台湾の電力普及率は日本や韓国を凌ぐ99.7%を達成した。 1964年、台湾電力の業績は世界銀行の耳目を集め、孫運璿はその招聘を受けナイジェリア国家電力会社に出向しCEOに就任した。在職した3年間、孫運璿は国際プロジェクトであるニジェール川水力発電計画を推進し、ナイジェリの発電量を88%増加させることに成功した。しかし台湾に残した母親の病状が悪化したことにより1967年に職を辞して台湾に帰国している。
※この「技術官僚時代」の解説は、「孫運璿」の解説の一部です。
「技術官僚時代」を含む「孫運璿」の記事については、「孫運璿」の概要を参照ください。
- 技術官僚時代のページへのリンク