技術官僚としての台頭
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1927年(民国16年)に上海クーデター(四・一二政変)が起きると、曽養甫は広州を離れて薛岳率いる部隊で任務に就き、後に国民革命軍軍官団政治部主任に任ぜられた。翌1928年(民国17年)2月、国民政府建設委員会常務委員に任ぜられ、1929年(民国18年)1月に副委員長に昇進している。委員長の張静江(張人傑)は浙江省政府主席を兼任していたため、建設委員会の多くの事務は曽によって担われ、実業建設や水利等の方面で辣腕を振るった。 1932年(民国23年)に曽養甫は浙江省政府建設庁長に転じ、省内公道網や鉄道の整備に尽力し、成果も顕著であった。この功績により、曽は蔣介石から浙閩贛四省辺区公路処処長に起用され、中国共産党(紅軍)討伐のための軍需輸送路整備に従事している。まもなく軍事委員会委員長行営公路処処長も兼任し、貴州省を中心とする湘黔・川黔・滇黔公路の整備に務め、中国西南部における重要な公道網を樹立した。1935年(民国24年)12月に鉄道部政務次長、1936年(民国25年)春には新路建設委員会委員長(兼任)に抜擢され、国内各地の鉄道網・道路網の整備に更に取り組んでいる。なお国民党では、第3期から第6期まで連続して中央執行委員に選出され、陳兄弟との縁からCC派の一員と目された。
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