戸田松平家の時代(第1期)
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「松本藩」の記事における「戸田松平家の時代(第1期)」の解説
上野高崎藩5万石より松平康長が2万石加増の7万石で入封する。康長は家康の養妹を妻とする有力な譜代大名であり、寛大かつ温厚な人柄を第2代将軍徳川秀忠に信任されて第3代将軍家光の補佐を命じられた。藩政においても在地の地侍72名を松本で召し抱え、地方知行(家臣に土地を与える制度)から蔵米制に改めて兵農分離を完成させ、領内を15組に分ける新しい行政区画を創設した。寛永3年(1626年)から寛永8年(1631年)にかけては領内に総検地を実施した。この検地に伴い、村の区画割りも行なわれた。康長は寛永9年(1632年)12月に松本で死去。跡を継いだ康直は寛永10年(1633年)4月に播磨明石へ移封された。
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戸田松平家の時代(第2期)
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「松本藩」の記事における「戸田松平家の時代(第2期)」の解説
水野家改易後の10月、かつて松本藩主であった松平康長の系統を継いでいた志摩鳥羽藩主の松平光慈が6万石で入り、以後戸田松平家9代の支配を経る。松平光慈の移封に関してはこの2ヶ月前の8月(あるいは9月)に光慈が老中松平乗邑に鳥羽の地は領分が狭くて収納も少なく勝手向も甚だ難渋して家来の撫育も行き届かず、公務も甚だ心許ないとして自ら請願して松本への移封を望んだといわれる。だが入封直後の享保12年(1727年)閏1月1日には本丸御殿が火災に見舞われた。光慈は戸田十五郎を登用して享保の財政改革を行なった。既に戸田松平家は前の火災をはじめ、引越し費用に合計2500両の借財も重ねており、財政難はこの時から始まっていた。光慈は自ら藩財政の危急を家中に訴え、倹約やリストラを推し進めた。一方で領民に対しても法度を制定して治世の基本法とした。光慈は早世して弟の光雄が第2代藩主となり、彼は武芸を重んじて奨励した。だが光雄も若死し、2代の藩主が連続して早々に不幸が相次いだ物入りのため、借財は1万8000両に膨らむことになった。このため宝暦7年(1757年)から家臣の俸禄減知が行なわれ、その後も明和から文久まで3年から5年の期間で減知が繰り返された。このため領民からの御用金、いわゆる拝借金への依存度が高まり、以後廃藩まで戸田松平家は御用金頼みの財政が続いた。安永期にも財政再建を目的とした藩政改革が第5代藩主光悌により行なわれたが、あまり効果はなかった。 第6代藩主光行は幕府老中の松平定信の影響を受けて財政再建を主とした厳しい倹約令を出すなどした寛政の改革を行なう。また藩校崇教館が創設された。文化・文政期にも藩政改革は行なわれている。 幕末になると、安政2年(1855年)より、藩主松平光則によって財政・軍制を中心とした藩政改革が行なわれた。天狗党の乱では元治元年(1864年)11月に松本藩兵は諏訪藩兵と共同して中山道の和田峠で天狗党と交戦したが、敗北している(樋橋戦争)。長州征討でも両次に幕府方として参戦しているが、いずれも後揃えでの参加であったため戦闘には至っていない。だがこれらの戦争で松本藩財政はいよいよ逼迫した。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争においては佐幕か勤王かでなかなか藩論の一致を見なかったが、東征軍の松本到着の直前になって勤王を選択し3万両を献上して帰順した。その後は新政府軍の一員として宇都宮城の戦いや北越戦争・会津戦争に参戦した。最後の藩主・松平光則の朝廷への版籍奉還上表は明治2年(1869年)2月25日のことであった(同年6月に許可)。明治3年(1870年)には藩知事となり、その下に大参事以下の役職が置かれた。
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