戦闘員としての動員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:17 UTC 版)
「防衛隊」、「鉄血勤皇隊」、「護郷隊」、「ひめゆり学徒隊」、および「白梅学徒隊」も参照 #日本軍の戦力状況で前述のとおり、沖縄の日本軍は兵力不足を補うために南樺太、北千島、択捉、国後、色丹、歯舞、満洲などと同様に、戦闘員としても住民を根こそぎ動員した。 飛行場建設や陣地構築などの後方任務が中心であったが、土地勘を活かしたゲリラ戦要員として遊撃隊(護郷隊)に配属された者もあり、地上戦開始後は所属を問わず前線での戦闘任務にも投入された。正規の制度に基づく陸海軍兵士としての動員以外に、軍の指導下で在郷軍人会(未召集の予備役兵)などによる自主参加が建前の義勇隊も組織された。中学校や女学校に在籍する生徒も防衛召集や「志願」による生徒隊として軍組織に組み込まれた。戦争末期当時、日本全国で「一億総特攻」による本土決戦の空気が醸成されており、沖縄住民の戦闘参加はそのような「一億総特攻」の始まりとされた。1945年6月23日には義勇兵役法が成立・施行され、本土決戦に備えて民間人を男女問わず補助兵力として大規模動員する国民義勇戦闘隊の制度が設置されたが、すでに組織的戦闘の終わっていた沖縄戦では適用されていない。同法は沖縄での住民戦闘参加を先例としたとものと考えられる。 戦闘員としての動員の中心は、兵役法に基づく17歳から45歳の男性の防衛召集であった。日本の第32軍は、1944年10月の第1次と1945年1月の第2次の2回にわたって防衛召集を実施している。第1次防衛召集は健康者が対象だったが、第2次防衛召集は対象年齢の男性のほぼすべてが召集されている。これら2回以外にも逐次防衛召集が実施されたが、正規の手続によらないものもあった。合計2万5千人以上が防衛召集されて一般陸海軍部隊や特設警備隊、遊撃隊などに配属され、1万3千人以上が戦死したとされる。これらの防衛召集兵は在郷軍人会による義勇隊と合わせて「防衛隊」と通称されている。 また、学徒隊として、1945年3月に14-17歳の旧制中学生ら1780人の男子生徒による鉄血勤皇隊が編成され、少年兵として防衛召集された。戦車に対する肉迫攻撃など戦闘行為にも従事し、約半数が戦死した。この鉄血勤皇隊の防衛召集のうち17歳未満の者については法的手続きに問題があり、戦後、遺族援護に関連して厚生省は、法的には無効な防衛召集であったとして、17歳未満の少年たちの軍籍を認めなかった(詳細は鉄血勤皇隊を参照)。また、女子についても14歳以上の女子生徒を従軍看護婦の代用としたひめゆり学徒隊・白梅学徒隊などが組織され、陸軍病院などで活動した。女子生徒の動員には法的根拠がなかったことから「志願」形式によるものとされた。女子学徒の動員は軍の要求だけではなく、沖縄県の教育関係者の軍への迎合によって実施された。 防衛召集によらない形式での住民の直接戦闘参加も発生しており、伊江島の戦闘では妊婦や少女までもが竹槍や爆弾で武装して突撃した。アメリカ軍上陸前、第32軍の長勇参謀長は沖縄県民に向けて「全県民が兵隊になる事だ。一人十殺の闘魂を持って敵を撃砕するのだ」と語ったとされ、新聞を通じて「老幼者は邪魔にならないよう避難し、稼働能力のある者は自主的に国民義勇軍などを組織し、神州護持のため一人一〇殺の闘魂をもって敵を撃破せよ」「県民はナタでも竹槍でも身近なもので遊撃戦(ゲリラ戦)をせよ。土地勘を活かして夜間の斬込(敵陣地への潜入)などで立ち向かえ」と述べて、住民の戦闘参加を煽っていた。 なお、戦後の戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)の適用の関係では、直接の戦闘任務より広く日本軍に協力して死亡した者を「戦闘参加者」として、準軍属と認定している。戦闘参加者として48509人が認定されていた段階では、軍部隊への地下壕明渡しが11483人を占めた。その他、輸送や食糧提供などが理由に挙げられる。
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