我妻説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
明治民法の反動性を強調する主張を批判したのが我妻栄である。 なるほど、戸主権の実質的内容をやや強大にし、法定推定家督相続人の去家禁止の規定を設けたこと等は、重大な点ではあろう。然し、延期論者が非難した親権、準正、扶養等の個々的制度は何れもそのままに踏襲された。…「民法出でて忠孝亡ぶ」とまで非難された旧民法の修正としては、意外の感を抱かしめる。もっとも、一派の委員は、自分の抱懐する「家族制度」的規定を提案しても到底受理されない雰囲気を察知して、不満を抱きつつ原案の技術的検討に従事した場合が多かったようである。…「立法は妥協なり」の原理を如実に示すものである。…一部の学者は…旧民法は「資本主義的単一家族制度」を原則とせんとしたのに対して、現行法は「家父長的大家族制度」の復活と維持とを主張する、といっている。然し私は、審議の全過程を検討して、この説を肯定する根拠は遂にこれを発見しえない。 …法典論争をもって「民主主義・個人主義に対する半封建的家族制度の固守」の争いとなすことは或いは承認しうるとしても、現行法が旧民法に比して半封建的家族制度の復活を実現したと判断することに対しては、賛成を躊躇せざるをえない。然らば、何故に延期派の主張を充分に容れない修正案が議会を通過したか、という問題になるであろうが、それはその争いが既に純学理的なものではなく、学閥、政争の色彩を有し、それが鎮静したことと、条約改正の必要という外的要素の強圧が加わったことがその原因であった、と私は考える。 — 我妻栄、1946年(昭和21年) 戸主権の強化とはいっても、同意を欠いた婚姻・縁組も適法に成立することを強調するときは、依然として空虚でしかないことになる。 中田・我妻と同様、明治民法戸主権の弱小を主張する学者としては、中川善之助(改正家族法起草委員)、手塚豊、山中康雄、中村敏子など。 石井良助も、明治民法を「旧民法と対照した場合…全般的により一層旧慣を尊重したとはいえないように思われる。そういう場合もあるが、反って、より近代的になっている場合も少なくない」と指摘する。 さらに、我妻は後述の星野・中村論争を踏まえた上で、大正・昭和の論争(後述)との連続性を強調する。 戸主を中心とする大きな家族団体に徹底すれば…家・戸主の関係…の他に、夫の権利とか親の権利などを認める必要がないということになろう。反対に、夫婦とその間の未成熟の子だけを家族的結合とすれば…家・戸主という関係を認める必要はないことになろう。ところが、明治民法は、その両方を認める。…両派の主張の妥協である。もっとも、大家族制度…から小家族制度へ移行したのは…すべての民族に共通の現象であって、その推移の過程に、複合的なものが存在したのも、共通のことである。したがって、明治民法…を奇型(ママ)児ということはできない。問題は…どれだけのウェートを置くかであり…家族制度の尊重論者と否定論者とが、妥協線の左右に対陣し…たのが、明治以来の家族制度論争だということができる。 — 我妻栄、1960年(昭和35年)
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