星野・中村論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
1950年(昭和25年)、田中實は、法典論争が保守対進歩の争いであるなら、代表的な天賦人権論者であり自由民権運動の理論的指導者の福澤諭吉が延期派だったのは不自然と問題提起。旧通説の立場を踏襲しつつ、不徹底なブルジョワ自由主義思想が法典論争を機に馬脚を現したために福澤が思想的変節を示し、天皇絶対主義という新たなプロレタリアート搾取の支配体制の確立に加担したという説明を試み、玉城肇もこれに続いた。 これに対し、政治学者中村菊男は手塚の研究を引用しつつ、 福澤が条約改正と法典編纂を切り離すべきとして延期論に加担したのは国家主権の確立という立場からであって、「通説」が延期派=反動的封建派とみるのは正しくない 各国の国民主義的運動は反封建的運動に矛盾せず、特に日本の自由民権運動は藩閥政府に対する民権の拡大を主張するとともに、列強諸国に対し国権の拡大を目指すという二面性を当初から持ち合わせていたのだから、明治の国民主義的運動を一概に反動的・封建的と解するのは妥当でない 福澤を含む延期派が、旧民法に反対して明治民法に反対しなかったのは、全体が日本人起草という安心感に加え、既に条約改正が成り、施行の具体的条件として法典完成が特に急がれたために反対論が起こりづらかったに過ぎず、福澤の変節を意味しない マルクス主義法学は日本社会内部の特殊性を強調するあまり、外国からの圧力という面を見逃している などと批判。 名指しで批判された論者の内、平野・玉城らマルクス主義者からは反論が無かったが、1952年に星野が反駁したことから、世に言う星野・中村論争が開始される。
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