星野・中村論争の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
旧民法と明治民法のどちらが反動的かは水掛け論に陥り、両者が自説を撤回しないまま論争は1956年に概ね終息。 中村説と星野説はすれ違いに終わった一方、星野の手塚への反論は苦しく、手塚説は学界の定説として確定したと言って良いと評され、正面から反対する論者はいなくなっている。 しかし、その後も旧通説類似の立場を採るものが少なくなく、 手塚説を認めつつも、論争の本質論は個別の条文の比較と切り離すべきとして、保守対進歩の路線を維持(青山、宮川澄、池田真朗) 第一草案よりも明治23年の公布民法と比較すべきであり、旧民法の方が確かに進歩的として星野説を支持するもの 保守化した旧民法に対する「民法出テゝ忠孝亡フ」の一言に尽きる超保守的な延期派の争いと解する 平野説・手塚説への言及を避け星野説を支持 などが主張されている。 旧通説を維持する論者が両民法の本質的差異と主張するのが、明治憲法を基礎とする絶対主義体制の有無であるが、このような主張に対しては、 天皇制国家が絶対主義的体制だったという歴史観自体見直される現状において、そのまま受け入れることは出来ない 明治民法の家制度が始めから天皇制を意識して構想されたというのは無理がある 結論ありきで自己の歴史観を述べたに過ぎない などの批判がある。
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