成長:青木年雄の養女
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 08:29 UTC 版)
瓢斎の号で知られる青木年雄は、東洋風の細密画を描いたり、アメリカ人の家に招かれては壁画を描いたりして評判を広め、全米の富裕層を中心に顧客を持つ成功者となったが、その一方で子供好きで面倒見がよく、困窮した日系人に救いの手を差し伸べる篤志家でもあった。年雄は音二郎から鶴子を置いていく代わりにお金を工面してほしいと頼まれ、鶴子の姿を見て放ってはおけないと思ったが、引き取ることにお金のやり取りが絡むことを嫌い、鶴子を自分の子として育てることを条件に引き取り、音二郎たちには別途見舞金を渡した。この時に音二郎は、年雄に「16歳になったら、鶴子を日本に帰してやってほしい」と頼んだという。後年に鶴子はこのことを振り返り、「いくら妹の子だからといって、生みの母が日本で待っている9つの子どもを無断でひとりアメリカにおき去りにするなんて、いくら当時のこととはいえ、ずいぶんおもいきったことをしたようにおもわれます」と述べている。 鶴子は年雄の深い慈愛に包まれながら大切に育てられ、年雄のスタジオ兼邸宅があるサンフランシスコとパサデナを、季節によって住み分ける優雅な生活を送った。鶴子がサンフランシスコの小学校へ通い始めると、年雄は毎日学校へ行く時と帰ってくる時に、どんなに忙しくても絵筆を止めて声をかけてくれたという。10代になると鶴子目当てに多くの若者が寄ってきたが、年雄は「鶴子は従三位以下の者には決してくれないつもりだ」と口癖のように言って追い払ったという。鶴子はアメリカの生活になじんで成長し、1906年には年雄とパサデナへ移住し、カトリックの学校に入学した。その春のある日、年雄のもとにタカから「音二郎との約束通りに、16歳になった鶴子を返してほしい」という内容の手紙が届いた。しかし、すでに鶴子と年雄の間には深い絆が結ばれていた。鶴子は次のように述べている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}7年、育てられた恩でもない、義理でもない、わたしがあれほど恋い慕った母の手紙を斥けて、先生(年雄)がアメリカにいるかぎり、ともに踏み止まろうと決意したのは、人間と人間のあいだには肉親であることを越えた、血よりも濃い大きな愛のつながりのあることを信じたからです。娘としてのわたし。父としての青木先生。2人はもう目に見えない糸で、しっかりとつながれていました。 母から帰国を催促する電報がしつこく届き、さらに大使館や領事館からもひっきりなしに連絡が入ってきたため、鶴子は学校をやめ、年雄とそれらから逃げるようにしてミズーリ州のカンザスシティやセントルイス、ウエストバージニア州などアメリカ各地を転々とする流浪生活を送った。その間、未だアメリカで有名な画家だった年雄は裕福な家に招かれて壁画を描き、鶴子はその傍らで墨をすったり、絵の具を溶いたりして年雄の仕事を手伝った。どこへ行っても部屋をあてがわれ、食事も出されたため不自由はしなかったが、年雄は持病の喘息の発作で徐々に健康をそこなっていた。そんな生活を3年間も送ったあと、1911年にサンディエゴに一軒家を借りて生活を始め、鶴子は父の絵の助手をした。 1912年6月26日の朝、年雄は自宅で突然亡くなった。召使の叫び声で鶴子が寝室に駆け付けると、年雄の体はすでに冷たくなっており、鶴子はその場で泣き崩れたという。後年に鶴子はその時の気持ちについて、「わたしの心にはまだなんの用意もできていませんでした」と述べている。その後、鶴子は女優になろうと決心し、ロサンゼルスの演劇学校イーガン・ドラマティック・スクールに入学したが、それに至った経緯については2つの説がある。1つは女ひとりでアメリカで自活する道を探し、年雄の知人だったサンディエゴのホテル経営者の紹介で、演劇学校に入学したとする説である。もう1つは少女時代からの友人だった『エグザミナー』紙の女性記者ルイーズ・シェアの養女として引き取られたあと、ルイーズの後押しで演劇学校に入学したとする説である。中川織江は、後者の説は鶴子の手記や当時の新聞記事を調べる限り違うようだと指摘している。鶴子の手記「ある国際女優の半生 私は早川雪洲の妻」(『婦人倶楽部』1960年5-7月号)によると、シェアとは3年間の流浪生活で音信が途絶え、シェアもその後の鶴子の生活を知らなかったが、1913年に鶴子が演劇学校生だった時に2人は再会したという。
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