慰霊と遺骨収容・帰還作業
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「硫黄島の戦い」の記事における「慰霊と遺骨収容・帰還作業」の解説
「硫黄島 (東京都)#戦没者の遺骨帰還事業」も参照 戦後の硫黄島は自衛隊と米軍が使用しており(硫黄島航空基地および硫黄島通信所を参照)、不発弾の危険などから旧島民の定住帰島や新規の移住、観光客などの訪問は認められていない。島内の戦没者慰霊施設としては、政府の「硫黄島戦没者の碑」(天山慰霊碑)と、東京都の「鎮魂の丘」、摺鉢山山頂の「日本戦没者顕彰碑」「特攻隊慰霊碑」 がある。集落とともに跡形もなく破壊された島民の墓地が1990年に「硫黄島島民平和祈念墓地公園」として再建され、翌年には旧島民戦没者の慰霊碑や島の開拓碑が建てられた。1994年(平成6年)2月12日には、明仁天皇・皇后美智子(いずれも当時)が天山慰霊碑と鎮魂の丘を拝礼した。 1945年(昭和20年)1月まで海軍の硫黄島警備隊司令の任にあった和智恒蔵海軍大佐は、防衛戦術に関して栗林中将と対立し更迭、アメリカ軍上陸前に本土へ送り返されていた。戦後、和智は天台宗の僧となり、遺族とともに硫黄島協会を設立して、硫黄島の戦いにおける戦没者の供養と遺骨収容とに取り組んだ。戦没者慰霊碑は、日本本土では高尾山薬王院(東京都八王子市)にあり、硫黄島協会が法要を行っている。 2005年(平成17年)6月19日、小泉純一郎が現職の首相として初めて硫黄島を訪問し、政府主催の戦没者追悼式に出席した。同追悼式は、終戦後60年を記念して「硫黄島戦没者の碑」の改修が3月に完了したことから、工事完了式典を兼ねて行われたものである。 日本側の戦死者約21,900人のうち遺骨が回収されたのは2008年(平成20年)3月時点で8,638人である。また、防衛省および厚生労働省から滑走路引き剥がしを検討する調査費用が2009年度予算案に計上された。 2010年(平成22年)8月10日、菅直人内閣は硫黄島からの遺骨帰還のための特命チーム(リーダー:阿久津幸彦内閣総理大臣補佐官)を設置した。これに先立ち、菅直人内閣総理大臣の指示によりアメリカ合衆国に派遣された阿久津補佐官は、同国の国立公文書館と国防総省捕虜・行方不明者調査局 (DPMO) を訪れ、日本兵の集合埋葬地(enemy cemetery = 敵の墓地)の存在を記載した資料を確認した。同年10月以降、2010年度(平成22年度)中に、同資料によって確定された2か所の集団埋葬地から、近年例にない多さの815柱の遺骨が発見された。同年12月14日には、菅首相と超党派の議員団が硫黄島を訪問して遺骨収容作業を行い、天山慰霊碑で行われた追悼式に出席した。菅内閣では特命チームを中心として、2011年度(平成23年度)から2013年度(平成25年度)まで集中して遺骨収容・帰還事業 を行うこととし、同事業は次の野田内閣以降にも引き継がれている。
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