慰霊と遺骨収容・帰還作業とは? わかりやすく解説

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慰霊と遺骨収容・帰還作業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 23:31 UTC 版)

硫黄島の戦い」の記事における「慰霊と遺骨収容・帰還作業」の解説

硫黄島 (東京都)#戦没者の遺骨帰還事業」も参照 戦後硫黄島自衛隊米軍使用しており(硫黄島航空基地および硫黄島通信所参照)、不発弾危険などから旧島民定住帰島新規移住観光客などの訪問認められていない島内戦没者慰霊施設としては、政府の「硫黄島戦没者の碑」(天山慰霊碑)と、東京都の「鎮魂の丘」、摺鉢山山頂の「日本戦没者顕彰碑」「特攻隊慰霊碑」 がある。集落とともに跡形もなく破壊され島民墓地1990年に「硫黄島島民平和祈念墓地公園」として再建され翌年には旧島民戦没者慰霊碑や島の開拓碑が建てられた。1994年平成6年2月12日には、明仁天皇皇后美智子いずれも当時)が天山慰霊碑鎮魂の丘を拝礼した。 1945年昭和20年1月まで海軍硫黄島警備隊司令の任にあった和智恒蔵海軍大佐は、防衛戦術に関して栗林中将対立し更迭アメリカ軍上陸前に本土へ送り返されていた。戦後、和智は天台宗の僧となり、遺族とともに硫黄島協会設立して硫黄島の戦いにおける戦没者供養遺骨収容とに取り組んだ戦没者慰霊碑は、日本本土では高尾山薬王院東京都八王子市)にあり、硫黄島協会法要行っている。 2005年平成17年6月19日小泉純一郎現職首相として初め硫黄島訪問し政府主催戦没者追悼式出席した。同追悼式は、終戦後60年記念して硫黄島戦没者の碑」の改修3月完了したことから、工事完了式典兼ねて行われたのである日本側の戦死者21,900人のうち遺骨回収されたのは2008年平成20年3月時点で8,638人である。また、防衛省および厚生労働省から滑走路引き剥がし検討する調査費用2009年度予算案計上された。 2010年平成22年8月10日菅直人内閣硫黄島からの遺骨帰還のための特命チームリーダー:阿久津幸彦内閣総理大臣補佐官)を設置した。これに先立ち菅直人内閣総理大臣指示によりアメリカ合衆国派遣され阿久津補佐官は、同国国立公文書館国防総省捕虜行方不明者調査局 (DPMO) を訪れ日本兵集合埋葬地enemy cemetery = 敵の墓地)の存在記載した資料確認した同年10月以降2010年度平成22年度中に、同資料によって確定された2か所の集団埋葬地から、近年例にない多さの815遺骨発見された。同年12月14日には、菅首相超党派議員団硫黄島訪問して遺骨収容作業行い天山慰霊碑行われた追悼式出席した菅内閣では特命チーム中心として、2011年度平成23年度)から2013年度平成25年度)まで集中して遺骨収容帰還事業 を行うこととし同事業は次の野田内閣以降にも引き継がれている。

※この「慰霊と遺骨収容・帰還作業」の解説は、「硫黄島の戦い」の解説の一部です。
「慰霊と遺骨収容・帰還作業」を含む「硫黄島の戦い」の記事については、「硫黄島の戦い」の概要を参照ください。

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