慰霊と文化的影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 23:44 UTC 版)
空襲により最も多くの犠牲者を出した星川では、熊谷仏教会と星川保勝会の共催により、1950年(昭和25年)から毎年8月16日の夜に、灯籠流しを行っている。1957年(昭和32年)には市内本石に有志によって平和地蔵が建立され、戦災30周年にあたる1975年(昭和50年)8月16日には、星川上に北村西望作の「戦災慰霊の女神」像が建立された。 歌人の鹿児島寿蔵は1945年(昭和20年)3月、戦火を逃れるため東京都滝野川区の田端から熊谷市に疎開したが、熊谷空襲の際には東京に滞在していたため難を逃れた。戦後、鹿児島は同市に留まり『求青』や『麦を吹く嵐』などの歌集を刊行するなど活動を続け1952年(昭和27年)に東京へと戻ったが、その間に熊谷の戦災を題材としたいくつかの詞を残している。 作家の壺井栄は妹夫婦が熊谷市に在住していた縁から同市を背景としたいくつかの作品を描いたが、1951年(昭和26年)に発表した『母のない子と子のない母と』では熊谷の戦災を逃れ父親の実家がある香川県の小豆島に移住した兄弟と、戦争で家族を亡くした島民たちの交流を描いた。
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