慰霊・伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 15:51 UTC 版)
「大久野島の毒ガス製造」の記事における「慰霊・伝承」の解説
「大久野島毒ガス資料館」も参照 1963年(昭和38年)、大久野島国民休暇村(現休暇村大久野島)が開場、これ以降、島に残っていた旧陸軍毒ガス工場群が壊されていったという。1969年、島内で毒ガス兵器が発見された際には国会で取り上げられたという。 1983年、『支那事変ニ於ケル化学戦例証集』など3種類の重要資料が粟屋憲太郎によって発見され旧日本軍による化学戦の使用実態が明らかになり、それを全国メディアが報道したことで注目を集めることとなった。そうした中で、慰霊碑の建設、そして毒ガス製造の実態を知ってもらおうと資料館建設に向けて動き出したが、国側は消極的であった。これは当時、国側は毒ガスのことを隠したかったためと言われている。 1985年、「大久野島毒ガス障害死没者慰霊碑」が建立、毎年10月に慰霊祭が行われている。1988年、資料館が開館した。1992年、化学兵器禁止条約が起草されると、中国国内の旧日本軍毒ガス兵器の存在が論点となった。この間、資料館は注目を集め、年間入場者数でみると開館当初は5・6万人台、1995年で約6万5千人のピークに達している。 平和学習目的での島内ガイド役は資料館館長の村上初一が行っていたが、村上が辞任した1996年以降は島内ガイドは依頼があれば市民団体が答える形となっている。 島を管理する環境省としては、1997年時点での資料には「この島の歴史を語るものとして教育の観点からもできるだけ保存すべきである」と残している。2018年西日本豪雨で島内の火薬庫跡が土石流で損壊するなど関連遺構の老朽化が表面化した際、環境省は2019年11月時点で報道に対し「文化財指定されていないため、積極的に保存処理することはない」とコメントしている。これに対して竹原市や被害者団体は遺構保存に向けて環境省に要望書を提出している。
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