悲劇と勝利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 10:05 UTC 版)
「ドナルド・マッキンタイア (イギリス海軍)」の記事における「悲劇と勝利」の解説
1942年の秋、アイスランド周辺での強風は続いており、1名の乗員が艦上から流されてしまった。艦載艇を下ろすには海況が悪すぎたが、一人の士官が艦外へ身を躍らせると、その水兵を舷側の途中まで登らせた。だが彼はそこで力尽き、水兵の手は握る彼の手から滑り落ちた。そしてその水兵の姿は二度と見えることはなかった。 護衛グループが未だ海上にいる間に送信された公式な通信文の嵐の中で、マッキンタイアはガイ・フォークス・デイ(7月5日)に彼が父親になったという私信を受け取った。マッキンタイアは副長を「短い頭」(a short head)で打った。 U-357 12月後半の次なる本国行き船団では、マッキンタイアはヘスペルスの艦首部分に大量のクリスマス用の七面鳥を積むことを許可したが、彼はこの決定を後悔することになった。 12月26日、ヘスペルスと駆逐艦ヴァネッサ(英語版)はHX219船団を護衛中にU-357(英語版)を迎撃した。この交戦は1日中続き、両艦は爆雷攻撃を繰り返したが成果はなかった。一度、マッキンタイアはヘスペルスのほんの50ヤード(約45.8m)先に潜望鏡を発見した。それでも反応は消えたが、それからまた見つかった。日が沈み始めた頃に、ヘスペルスはヴァネッサからUボートが浮上したのを確認して体当たりを試みる旨の通信を受け取った。だが、双方の激しい機動が数回あった後に、ヴァネッサはUボートの艦首を掠めただけに終わった。 ヘスペルスも加勢し、2隻の駆逐艦とU-357双方が相手を出し抜こうと知略を尽くして行動した。ヘスペルスはドイツの艦長がイギリスの駆逐艦の艦首を横切るという致命的失敗を犯すことを期待して、Uボートの司令塔に向けて2基の信号探照灯を指向し続けた。ヘスペルスはUボートに体当たりを行い、艦体をほぼ真っ二つに切り裂いた。それから、わずかに逃れ得た一握りの生存者を広がる重油のプールから引き上げたのであった。 しかし、撃沈祝いはヘスペルスの艦首が大きく損傷し、艦首に積まれていた「特別な荷物」も水浸しになったことで貧相なものになった。リヴァプールでの入渠修理には3ヶ月を要した。 U-191 ヘスペルスは1943年4月に、新兵器ヘッジホッグ対潜迫撃砲と新たな士官たちを乗せて海に帰ってきた。訓練期間が必要だったものの、ほとんど与えられないまま任務に駆り出されることになった。北へ向かうONS4船団が護衛を必要としており、今やその任務がヘスペルスと駆逐艦ホワイトホール(英語版)(HMS Whitehall, I94)、そして5隻のコルベットに課せられていたからである。 4月23日、ヘスペルスは10マイル(約16.1km)以下の距離で浮上しているUボートを探知した。ヘスペルスは急速潜航したUボートに接近し、マッキンタイアはヘッジホッグ攻撃を行うことに決めた。だが射撃命令に続いたのは、弾頭の安全ピンを外さないままヘッジホッグを発射してしまったことによる恥辱的な静けさであった。すぐに失敗に気づき、代わって通常のものより重い(1トン)ものを含む1回の爆雷攻撃を行った。それから、ASDIC越しに聞きなれない音が聞こえ、再度ヘッジホッグによる攻撃が試みられた。今度は成功し、そのUボートU-191(英語版)は全乗員とともに沈んでいった。
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