悲劇と復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:31 UTC 版)
「ウォルター・ジョンソン」の記事における「悲劇と復活」の解説
毎年のようにリーグの投手タイトルをとってきたが、ボールの規格が変わった1920年の成績は8勝10敗・防御率3.13と落ち込んだ。翌1921年にジョンソンを相次いで不幸が襲う。7月に父親が脳卒中で亡くなり、同じ年のシーズンオフには長女がインフルエンザで亡くなった。 相次ぐ悲劇にジョンソンは現役引退を考えていたが、ファンの懇願もあり、それまで一度も成し得ていなかったセネタースのリーグ優勝を目標に現役続行を決意する。悲願となったセネタースのリーグ優勝はついに1924年に成し遂げられ、既に36歳になっていたジョンソンも23勝7敗と大活躍、同年は自身3度目となる投手三冠を獲得し、二度目のリーグ最優秀選手に選ばれた。翌1925年には37歳で20勝を達成、セネタースのリーグ2連覇に貢献した。投手としての球種はカ-ブ(米書「guide to pitchers 」 より)タイカッブは自伝で剛速球と抜群の制球とスタミナを持つがその優しく紳士的な性格が弱点であると指摘していた。
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