後嵯峨・後深草天皇廃立計画説
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「宮騒動」の記事における「後嵯峨・後深草天皇廃立計画説」の解説
「宮騒動」の名前の由来について、鎌倉での執権勢力打倒と合わせて、京都でも執権勢力が擁立した後嵯峨上皇・後深草天皇を廃して、順徳天皇系の「六条宮」を擁立しようとしたからだとする説がある(井上幸治・鈴木かほる・曽我部愛ら)。 事件発覚後の6月26日に九条道家は願文を作成し、その中で自分が関東の混乱に乗じて「六条宮」を皇位に就けようとしていると疑われたことを否定する内容で、翌7月16日にも同様の内容の願文を春日大社に納めている。 この「六条宮」についてはこれまで九条道家の側近・平経高の日記である『平戸記』の仁治元年閏10月19日条などに関する通説的な解釈から後鳥羽上皇の皇子で順徳天皇の同母弟である雅成親王と解されてきたが、近年になって高野山文書『宝簡集』二十「金銅三鈷相伝事書案」に記された注記から、順徳天皇の第五皇子で仲恭天皇の異母弟である忠成王が正しいとする解釈が現れた。「六条宮」が雅成親王・忠成王どちらにしても、後鳥羽上皇が承久の乱以前に次代の治天として想定していた順徳天皇に近い皇族で、本来の順徳天皇の後継者である仲恭天皇(母は九条道家の姉・東一条院)が鎌倉幕府による廃位後に早世してしまったこの当時において、それに代わり得る皇位継承の候補者であった。 一方、当時の九条道家の立場を見ると、仲恭天皇・四条天皇という九条家出身の母を持つ天皇が男子を残さずに早世したために天皇の外戚の立場を利用して朝廷を掌握する計画に挫折し、四条天皇崩御後に順徳上皇・雅成親王の母である修明門院と結んで忠成王の擁立し、東一条院が准母になって後見する構想を抱いたものの、執権勢力は後鳥羽上皇によって皇位継承から排除されたはずの土御門上皇の皇子である後嵯峨天皇を即位させ、その混乱に乗じて自分の舅である西園寺公経が自分の娘を天皇の后にしたことで、新天皇の外戚になる術を失っていた。後鳥羽上皇の遺志を踏みにじった皇位継承に憤る修明門院をはじめとする順徳上皇周辺や外戚の地位を失ったことを快く思わない九条道家にとって後嵯峨天皇を排除する動機はあったと言える。 反対派から見れば、朝廷内部に有力な権力基盤を持たず、皇統を支える在俗の兄弟もいない状態で治天の君となった後高倉院守貞親王の皇統が20年余りで断絶している現実がある以上、同様の状況で治天の君となる後嵯峨天皇の皇統にもその可能性が期待されていたが、後嵯峨天皇には何人も皇子が誕生して、ついにはその1人である後深草天皇に皇位を譲って院政を始める状況になった。しかし、承久の乱以来、後鳥羽上皇-順徳上皇系統の皇位継承を排除し続けた執権勢力が没落すれば、九条道家の政治力で幕府の新体制と連携して後嵯峨上皇の皇統を覆すことも可能であったと考えられている。更に前述の『平戸記』の寛元3年10月15日条には先に亡くなった名越朝時の使者が平経高の夢の中に現れて竹園に御所を造営すべきことを告げ、経高は竹園を六条宮のことであると解釈しており、九条道家周辺と名越一族の間で皇位継承に関しても何らかの計画を有していたことを示唆しているのである。しかし、鎌倉の動きが失敗に終わった以上、京都の反後嵯峨上皇勢力も幕府の追及を逃れるために反執権勢力との関係を否定する必要に迫られ、前述の九条道家の願文はそのために作成されたと推測されている。 しかも、宮騒動終了後も修明門院を中心とした順徳上皇の皇統を復活させようとする動きが納まることはなかったとみられる。後嵯峨上皇側の公家である葉室定嗣の日記『葉黄記』宝治3年(1249年)2月25日に平経高が秘かに忠成王の元服の儀を執り行ったことを聞いて衝撃を受けている。それから4か月に宝治合戦が発生し、忠成王と三浦泰村の関係を疑った幕府は8月に後嵯峨上皇への徳政実施の申し入れを口実に二階堂幸泰に兵を率いて上洛させ、修明門院らを直接問い糾している。修明門院は依然として順徳天皇の皇統を維持できるだけの荘園群を保有しており、それを背景に後鳥羽上皇の正統な継承者の地位を後嵯峨上皇と争っていた。曽我部愛は親王将軍成立の背景として、鎌倉幕府側の事情だけでなく、自己の皇統を否定し続ける修明門院や順徳天皇の子孫達に脅かされ続けた後嵯峨上皇側の事情があったことも指摘している。
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