名前の由来について
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川の上流にある朳差岳の雪形「鯛頭」に因んでいるとする説、扇状地域では伏流水となり河口付近で再び現われる事からの連想で「胎内」とついたなどの説がある。 かつては、アイヌ語の「テイ・ナイ」(清い川)、または「トイ・ナイ」(toy-nay 泥の川)を語源とするとされ、胎内市が合併でできる際にも『「胎内」はアイヌ語で「清い水の流れ」を意味する』というものがまちだよりに掲載されたこともあったが、近年では、これは誤った言い伝えであると唱えられている。
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名前の由来について
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兼六園の名前は1822年(文政5年)、前田斉広の依頼に応じて白河藩主だった松平定信(白河落翁)が命名したとされることが多い。兼六の語源は宋の詩人・李格非の『洛陽名園記』の中で中国洛陽の名園・湖園を「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ね備える名園」と謳った文をもとに命名した。その文は以下の通り。 洛人云、園圃之勝、不能相兼者六務宏大者少幽邃、人力勝者少蒼古、多水泉者艱眺望 兼此六者、惟湖園而已 洛人の云ふ、園圃の勝、相ひ兼ねるあたはざるは六。 宏大を務むるは幽邃少なし、人力勝れるは蒼古少なし、水泉多きは眺望艱し。 この六を兼ねるは、ただ湖園のみ。 しかし、松平定信自筆「花月日記」文政5年(1822年)9月20日の記載には、「大塚へ行。秋色をミて、ただちにかへる。加賀の大守より額字をこふ。兼六園とて、たけ三尺ニ横九尺也。兎ぐの額にハいとけやけし、兼六とハいかがと、とひにやりぬ。」とあり、兼六園の額字を頼まれた松平定信が兼六園の意味を知らなかったことから、この時点ですでに兼六園という名前があったことがわかる。また、「明治園芸史」220頁に「前田候第12世斉広朝臣、証金龍造園竣功の後に、此湖園記文より、兼六という文字を取りて、園名と為し、白河少将楽翁公の揮毫を請ひて、扁額を作り、之を園門に揚げられしと云ふ、」とあり、加賀藩主斉広が命名したことがわかる。 定信が揮毫した扁額は現在、石川県立伝統産業工芸館に展示されている。 兼六園は、小立野台地の先端部に位置していることから、園内に自然の高低差がある。これによって、園路を登りつめていく際の幽邃な雰囲気と、高台にある霞ヶ池周辺の宏大さ、眼下の城下町の眺望を両立させている。
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