廻瀾條議と解腕痴言
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玄瑞は謹慎中の文久2年(1862年)8月、『廻瀾條議』と名付けた建白書を藩主に上提した。これが藩主に受け入れられ、長州藩の藩論となる。藩論は航海遠略策を捨て、完全に尊王攘夷に変更された(長井は翌年2月自刃を命ぜられた)。また翌月には、全国の尊攘派同士に向けた実践綱領の書『解腕痴言』を書いた。 『廻瀾條議』と『解腕痴言』は、結局「西洋の強大な武力に屈服する形で開国するのではなく、対等に交渉する気力を奮い起こすべきであり、それによって国力を回復させ、軍備を整えた後、対等な立場で条約締結に及ぶ」という意見であった。これは師松陰の開国的攘夷論を踏まえたものであるが、他方、「攘夷」という主張は、政権を幕府から朝廷へ回復させる倒幕という目的からも有効であると玄瑞は力説した。|『廻瀾條議』の要点は次の通りである。 (1)汚名を蒙って処刑された吉田松陰の遺骸を改葬して、その「忠烈節義」「殉国の志」を顕彰し、藩内で誰の意見が正しくまた邪であったかをはっきりさせること。(2)安政五年の修好通商条約をはじめ幕府の怯懦な方策により、日本が将来植民地同様となる危機が生じており、その責任を負うべき井伊直弼以下の閣僚はさらに安政の大獄という暴虐の責めをも負うべきで、厳罰に処さねばならない。 (3)下田の和親条約までは良く、安政五年の条約はすべて下田の条約にまで引き戻し、外国貿易は長崎、下田、函館の三港に限ること。 (4)安政五年の条約は違勅の大罪をも犯しており、「大義をもって論ぜば」幕府を「誅戮殲滅」させてもいいのだが、朝廷が「ご寛容」に将軍の過誤を改める機会を与えられたのだから、「長薩二藩」が「督責」して条約に関する処罰や下田条約への引き戻しをさせねばならない。 (5)朝廷に「御政事所」を設け、ちくいち重要政務を幕府から奏聞させ、また、「御親兵」を置くなどして、ゆくゆくは「天下の御威権」を「朝廷に帰」すべきだが、ものごとには順序が大切であり、まず先の項(4)を実現するようにもってゆき、もし「承服つかまつらず」は、「決闘死戦と御勇決猛断」をなされねばならない。 以上をなして、諸外国の様子を洞観し、海軍を充実させ士気を高めて積極的海外に雄飛せよ。 同年9月、謹慎を解かれた玄瑞は、早速活動を開始する。薩長土三藩有志の会合に出席し、攘夷御下命の勅使を激励する決議をなした。また、9月末には土佐の坂本龍馬、福岡孝弟らと会い、三藩連合で近衛兵を創設する件を議した。10月、玄瑞は桂小五郎とともに、朝廷の尊王攘夷派の三条実美・姉小路公知らと結び、公武合体派の岩倉具視らを排斥して、朝廷を尊攘化した。そして同年10月、幕府へ攘夷を督促するための勅使である三条実美・姉小路公知と共に江戸に下り、幕府に攘夷の実行を迫った。これに対し、将軍・徳川家茂は翌年上京し返答すると勅旨を受け取った。
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