廻船と造船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 09:38 UTC 版)
江戸時代、この地は製塩や漁業が盛んであった。そして、島の北側は広島藩が大規模開発した竹原塩田と、広島藩支藩である三次藩唯一の年貢積出港であった忠海、島の南側は西廻り航路が創設され以降沖乗りの港としては広島藩随一となった御手洗と、周辺に広島藩交易網の重要地があったことからこの島では廻船操業および造船が主幹産業となった。幕末期には島民殆どが廻船操業に絡んでおり、忠海廻船問屋の幕末期の取引記録によると「大崎島」の客船は100艘以上にも及びこれらは芸予諸島周辺で日用品の取引を行う小型廻船を運用していたと考えられている。造船は広島藩内では元々倉橋島が中心であったが、時代が下るとこの島でも盛んになった。千石船も多数作られ船主も存在していたという。 その中の一つに、廻船問屋「御下屋」がある。この家は望月家といい、幕末から明治時代に入ることになると島屈指の廻船問屋となった。この望月家が明治期に長崎の高島炭鉱や松島炭鉱(現三井松島産業)からの石炭輸送を一手に引き受けることになると、島内、特に木江は近畿へ向かう石炭輸送の中継基地として栄えた。望月家は政治家一家であり、望月圭介を輩出している。 そして近代には木造船から近代的な鋼船建造へと移り変わる。これは一つに石炭輸送の中継基地となったこと、そして島の東側が"三原瀬戸航路"と呼ばれた近代における瀬戸内海の主要航路となったことから、時代の要求に合わせて変化したことによる。昭和期の一時、内航船造船で全国シェア30%近くを占めていた事もあった。ただオイルショック以降の造船不況が影響し衰退している。
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