廻国後
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嘉永6年(1853年)7月、斎藤弥九郎と新太郎は長州藩江戸屋敷に招かれ、江戸屋敷内の道場で神道無念流を指導することが決定した。これによって神道無念流が長州藩に正式に採用された。 安政元年(1854年)4月3日、福井藩江戸屋敷にて父・弥九郎が福井藩主・松平春嶽に剣術試合を上覧する際に歓之助や練兵館門下生100人以上とともに参加した。廻国修行中で江戸に滞在していた佐賀藩士・牟田高惇(鉄人流)の日記『諸国廻歴日録』によると、この場で新太郎と歓之助の兄弟試合も行われたという。 新太郎は大上段からの打ちを得意とし、当時、新太郎の大上段と歓之助の突きはこれを防げる者はいなかったという。 安政年間に父・弥九郎が隠居し、新太郎は2代目弥九郎を襲名した。 文久3年(1863年)6月の下関事件時、下関に滞在していた新太郎は、外国人の首を取ろうと長州藩の帆走軍艦・庚申丸に乗り込んだが、庚申丸はアメリカの軍艦・ワイオミング号に撃沈されてしまった。 同文久3年、講武所剣術師範に就任。慶応2年(1866年)、幕府遊撃隊肝煎役。慶応3年(1867年)、幕府歩兵指南役並を歴任。
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