廻国と造仏活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 07:51 UTC 版)
以来は木喰の弟子としてともに関東地方から東北地方を廻国し、安永7年(1778年)には北海道へ渡り、道南地方を廻国し作法を行う。従来、師の木喰は北海道において造仏活動を開始したとされて、北海道爾志郡八雲町(旧熊石町)の門昌庵に伝来する子安観音像を始めとする諸像が初期の木喰仏とされていた。 しかし2004年には赤外線カメラを用いた背面調査で、門昌庵の諸像には後年の白道仏と共通する書体の六字名号や白道の墨書銘が存在することが確認され、初期の木喰仏は白道の作例であることが判明した。また、白道が北海道へ渡っている可能性は清雲俊元により指摘されていたが、この発見により確定した。 さらに、久遠郡せたな町の太田権現には木喰・白道の渡道時に多数の円空仏が伝来していたが(現在は亡失)、門昌庵に伝来する『納経帳』の存在から、木喰が太田権現において円空仏を実見し、北海道において造仏活動を開始したとする説があった。木喰は円空や円空仏に関して言及した確実な史料を残していなかったが、2008年(平成20年)に山梨県立博物館で開催された『木食白道 知られざるもう一人の木食』展に際して『木食白導一代記』が調査・解読され、白道が円空仏について直接言及してはいないものの、太田権現において多数の仏を実見していたことが判明した。さらに、2015年には小島梯次・近藤暁子により青森県上北郡六戸町の海傳寺(かいでんじ)に伝来する「釈迦如来像」が初期の木喰仏であることが発見され、木喰は北海道へ渡る以前から造仏活動を開始していたことが確認された。 安永9年(1780年)5月には本州へ戻り、同年9月から翌安永10年まで下野国栃窪(栃木県鹿沼市栃窪)の徳性院に5か月間滞在し、行道と薬師三尊や十二神将像の制作を行う。安永10年(4月に改元して天明元年)5月には信濃国長久保(長野県小県郡長和町長久保)において行道と別れ、秩父三十四所観音に納経すると故郷の甲斐へ戻る。甲斐では同年6月から翌年2月まで滞在し、百観音菩薩像や子安地蔵菩薩像、百体仏などの制作を行う一方で、法幢院で加持祈祷を行い、同年11月には末寺にあたる上原寺の住僧となる。
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