諸国の廻国と造仏活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 05:18 UTC 版)
2014年時点で最古の円空仏は郡上市美並町の神明神社の諸像であるが、初期の円空仏は郡上市美並町や郡上市八幡町、関市、岐阜市など岐阜県下に分布しているほか、周辺の三重県、愛知県にも分布している。初期の円空仏は小像が多い。 寛文6年(1666年)1月、弘前藩の城下を追われる。『津軽藩日記』寛文6年正月29日条や北海道に分布する円空仏の背銘に拠れば、同年春には円空は青森経由で蝦夷地(北海道)の松前にへ渡っている。北海道の円空仏は道南地方に多く分布し、同一形式の観音像が多い。2014年時点で45体が確認され、現存像はこれに移入仏6体が加わる。寛政元年(1789年)の菅江真澄『蝦夷喧辞辯』(えみしのさえぎ)に拠れば、久遠郡せたな町の太田山神社(太田権現)には多数の円空仏が存在したと記しているが、これは現存していない。後に木喰の弟子・木食白道による『木食白導一代記』に拠れば安永7年(1778年)に木喰とともに北海道へ渡った白道は同社で「多数の仏」を実見したという。小島梯次は現存する北海道の円空仏は同一形式の観音像が多いのに対し、菅江真澄も木食白道も太田山神社の像は多種類の仏であったと記されていることから、太田山神社の像を円空仏であることを慎重視している。 寛文9年(1669年)頃、尾張・美濃の地方に戻っていたことが在銘の諸像によって知られる。 寛文11年(1671年)、大和国の法隆寺に住していた巡堯春塘より法相宗の血脈を受ける。 延宝7年(1679年)、近江国の園城寺に住していた尊永より仏性常住金剛宝戒の血脈を受ける。 延宝8年(1680年)頃、関東に滞在しており、上野国の貫前神社で『大般若経』を読誦する。 貞享元年(1684年)、再び美濃に戻り、荒子観音寺の住持であった円盛より天台円頓菩薩戒の血脈を受ける。 元禄2年(1689年)、円空が再興した美濃国関の弥勒寺が、天台宗寺門派総本山の園城寺の山内にあった霊鷲院兼日光院の末寺となる。 元禄8年(1695年)、門弟の円長に対して授決集最秘師資相承の血脈を授け、7月15日(8月24日)に自坊の弥勒寺の近辺で寂す。
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