道南地方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 07:01 UTC 版)
明治元年の松前では、将軍地蔵尊や大島大明神などの神仏混交的な祠堂が処分された。明治4年以降、神仏分離に基いて、古く混淆的な寺社が多い道南では仏像の撤去や社名・神名の改称が積極的に行われたが、内地のような廃仏毀釈の騒動には至らなかった。江差では神社の仏像が焼却されたり、由緒のはっきりしない小祠が廃されたが、大きな混乱は起きなかった。 多くの古い神社を有していた道南地方は北海道でもさきがけて郷社・村社の認定が行われたが、北海道全体の認定が進むと、郷社よりも村社のほうが氏子の数が多いなど、道南地方の社格認定の整合性が問題になってきた。その結果、明治8年に函館支庁下の郷社・村社の社格区分の更正があった。北海道庁の出張所がある、港が大きい、神社の社殿等の整備が行き届いている、といった神社を郷社とし、それ以外を村社とすることにした。道南の社格の最終的な確定は明治9年10月となった。江戸時代から「総鎮守」を自称し、開拓使が「崇敬社」としてきた函館八幡宮についても、その地位を見直す必要があり、ひとまず県社となり、明治10年(1877年)には国幣小社となった。 北海道では地理的な事情から神社明細の作成が遅れた。全道的な神社明細がひとまず完成するのは明治12年になった。ただし、これにも収録されない小さな無願神社がたくさんあった。 北海道全体ではその後も神社は増加したが、道南に限ると整理統合によって減少した。例えば、明治39年(1906年)から大正5年(1916年)までの10年間で、函館支庁では、公認神社が167社から107社に減った。同じ時期の桧山支庁では141社から42社に減っている。これらの多くは無格社や村社だった。道南以外では、たとえば空知地方では19社から33社へ逆に増えている。
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