道南域内の道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 09:52 UTC 版)
かつての和人地域内を結ぶ道で行われた主な工事をあげる。 福山-上ノ国間山道 城東と部川の水源から千軒岳を経て上ノ国村字湯の岱に達する約11里(43.2km)の道で、安政4年11月に伊達林左衛門によって開削された。現在の道道石崎松前線の前身。 木古内山道 木古内村から北村(現・上ノ国町中心部付近)に至る約8里(31.4km)の道で、現在の道道江差木古内線の前身である。文化年間に江戸幕府によって修築された。木古内川に沿ってさかのぼり、稲穂峠を越えて天の川に沿って下る箱館方面と江差方面との交通路。峠の北側にあった番所では旅人を宿泊させるなど旅の便宜を図っていた。 鶉山道(大野越) 大野川に沿って上り、分水嶺を越えて鶉川に沿って下る箱館方面と江差方面を結ぶ11里(43.2km)の道で、現在の国道227号の前身。安政5年3月から9月にかけて江差の甚右衛門、津軽の庄兵衛らによって開削された。戊辰戦争(箱館戦争)の際、沿道で二股口の戦いが行われている。 軍川新道 それまでの茅部峠(大沼峠、現在の国道5号大沼トンネル付近)に替わり安政3年箱館奉行によって藤山-軍川間の山道が開削された。茅部峠をより3里(11.8km)短く、軍川の住民は箱館への日帰りが、また、大川、七重、藤山、峠下の諸村で馬を持つ者は鹿部へ生魚などを買い出しに日帰りすることが可能となった。 黒松内越 長万部から長万部川沿いに北上して稲穂峠を越え、黒松内からは朱太川に沿って下り、歌棄(うたすつ)や寿都(すっつ)に至る道で、現在の道道寿都黒松内線の前身てある。長万部から黒松内までの約6里(23.6km)、黒松内から追分までは2里(7.9km)、追分で道は分岐し、寿都までの2里(7.9km)余、歌棄までは1里(3.9km)余の道程であった。寛政・文化よりもあとに黒松内在住の利右衛門が木賃宿と渡船を営んでいたが、安政3年5月から10月にかけて、歌棄場所請負人桝屋栄五郎の父・定右衛門は箱館奉行に出願し黒松内以北を、黒松内以南は箱館弁天町の福治郞、千代田の才太郎の2人が出願しそれぞれ開削したものである。
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