建設予定ルートの変更
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 23:38 UTC 版)
「中央自動車道」の記事における「建設予定ルートの変更」の解説
中央道派の総帥であった参議院議員の青木一男は、戦前に大蔵大臣を務めた経験もあったことから、財政的にも東名高速と中央道の同時建設は困難であることに危機感を強め、中央道の全線開通が夢で終わることを憂慮した。このことで青木はヨーロッパのモンブラントンネルの視察をきっかけに、建設省の進言を受けて、多額の建設費をかけて赤石山脈(南アルプス)にトンネルを貫通させて横断する最短ルートをとるのではなく、諏訪を経由するルートに迂回変更することを決断して地元を説得した。 甲府から諏訪を経て伊那谷を通過する北回りルートに変更することが突如発表されたのは、1963年(昭和38年)5月のことである。その理由は、南アルプスの山岳地を長大トンネルで貫通する当初計画よりも、当時の金額で1000億円ほど安く建設することができるということであった。突然の変更決定に、予定する経過地とされていた身延町は、大陳情団が議員たちに当初ルート案の遂行を訴えたが、決定が覆ることはなかった。中央道のルート問題は、1964年(昭和39年)に国土開発縦貫自動車道建設法の一部を改正する法律(昭和39年法律第104号)の成立によって、経由地が「静岡県安倍郡井川村附近」から「諏訪市附近」に改正されて最終決着した。このときすでに中央道の本線として着工されていた富士吉田線は、大月から分岐して河口湖方面へ向かう現在の支線のような路線となった。 なお、これらの経緯から開通当初は高井戸ICから河口湖ICまで通し番号(1 - 8)が振られていたが、計画変更後に八王子IC - 河口湖ICは建設予定JCT・ICを含めた現在の番号に振り直されている。 山梨県内の中央道の整備は、建設大臣、自民党幹事長、自民党副総裁などを歴任し、建設族議員として権勢を振るっていた金丸信が推進し、上野原ICと長坂ICは金丸の意向で作らせたといわれる。 高井戸 - 調布間の工事では、山梨県側から調布ICまでが既に開通しており、高井戸インターチェンジは環八通りを経て首都高速道路4号線と接続する予定であったが、東京都が売り出した世田谷区烏山地区の住宅団地内を通ることを、東京都が沿線住民に事前説明していなかったことが発端となって、生活環境に対する十分な対策がないまま、建設工事の中止を余儀なくされており、工事が再開されるまで3年を要している。 結局、調布IC付近で降りた自動車が招いた周辺道路の交通渋滞が、新たな社会問題となったこともあり、住民側の要請を受けた代議士が仲介役となって、当時の建設大臣亀岡高夫とのトップ交渉を経て、代議士側が住民側を説得することで話し合いが行われ、日本道路公団側と住民側双方に不満を残しながらも、この問題は解決した。 そのためもあって、最初の開通は東名高速よりも早いが、東名高速が着工から数年で全線開通したのに比べ、中央道は着工から全線開通までに20年間の年月を要した。
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