平壌の戦い
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平壌の戦い(ピョンヤンのたたかい)は、朝鮮半島の平壌周辺で起こった戦闘である。
- 1 平壌の戦いとは
- 2 平壌の戦いの概要
平壌の戦い
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詳細は「平壌の戦い (日清戦争)」を参照 開戦前から朝鮮半島北方で混成第九旅団の騎兵隊が偵察任務に就いており、7月末「平壌に清軍1万人集結」との情報が大本営に伝えられた。大本営は、30日に第五師団の残り半分に、8月14日に第三師団に出動を命じた(ただし後日、第三師団は、大本営の指示で兵站部の編成が変更されたこともあり、結果的に先発隊(歩兵第18連隊が基幹)しか平壌攻略戦に参加できず)。8月中旬、漢城に到着した第五師団長野津道貫陸軍中将は、情勢判断の結果、朝鮮政府を動揺させないためにも、早期の平壌攻略が必要と判断した。第五師団が北進を開始した9月1日、同師団と第三師団その他で第一軍が編成された。12日、仁川に上陸した第一軍司令官の山縣有朋陸軍大将が第五師団宛に「第三師団の到着を待たず、従来の計画により、平壌攻撃を実行すべき」と指示した(カタカナを平仮名に書き換え、読点を入れた)。 李鴻章から、平壌に集結した清軍の総指揮を任されたのは、成歓の戦いで敗れた葉志超提督(中将相当)であった。9月7日、葉は、光緒帝の諭旨と李の督促を受け、7,000人の迎撃部隊(4将の部隊から抽出して編成)を南進させた。しかし同夜、「敵襲」との声で味方同士が発砲し、死者20人・負傷者100人前後を出して迎撃作戦が失敗した(後年、日清戦史を研究・総括した誉田甚八陸軍大佐は、分進合撃する日本軍への迎撃作戦について、少なくとも平壌の陥落時期を遅らせる可能性があったとした)。13日、葉は、包囲される前に撤退することを4将に計ったものの、奉天軍を率いる左宝貴が葉を監禁したため、清軍は4将が個々に戦うこととなる。 9月15日、予定通り日本軍の平壌攻略戦が始まった(ただし西側の師団長・直率部隊は攻撃に参加せず)。北東から前進予定の歩兵第十旅団長立見尚文陸軍少将に「午前8時前後ニハ平壌ニ於テ貴閣下ト握手シ……」と前日返信していた大島旅団長率いる混成第九旅団は、南東から平壌城・大同門の対岸近く(大同江右岸)まで前進したものの、右岸の堡塁と機関砲に阻止されて露営地に退く(戦死約140人、負傷約290人)等、夕方近くになると戦況が膠着(こうちゃく)していた。しかし、徹底抗戦派の左宝貴が反撃に出て戦死したこともあり、午後4時40分頃、平壌城に白旗が立ち、休戦後に清軍が退却するとの書簡が日本軍に渡された。もっとも、傷病兵を除く清軍は、休戦前に平壌城から脱出し、替わって日本軍が入城した。 なお日本軍は、進軍を優先したため、この戦いでも糧食不足に悩まされ、最もよい混成第九旅団でさえ、常食と携行口糧それぞれ2日分で攻略戦に臨んだ(その後も補給に苦しみ、しばしば作戦行動の制約になる)。糧食不足は、平壌で清軍のもの(第五師団の1か月分)を確保したことにより、当面解消された。
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