帝銀事件以後とは? わかりやすく解説

帝銀事件以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 15:47 UTC 版)

平沢貞通」の記事における「帝銀事件以後」の解説

実力派画家としての地位確立していた平沢は、1948年1月26日帝国銀行(後の三井銀行現在の三井住友銀行椎名町支店で男が行員らに毒物飲ませ12人を死亡させた事件帝銀事件)の犯人として同年8月21日突如警視庁逮捕された。類似事件使用され名刺受け取っていたが持っていなかったこと(平沢財布ごとスリにあった主張)、過去銀行相手詐欺事件を4回起こしていたり、出所不明現金持っていたのが決め手ともいわれる。この現金については松本清張らが、当時画家として名が売れていた者としては不名誉な副業春画作成など)で得たものと推理している。 平沢取調べ自白をしたが、公判無実主張。しかし、裁判では1955年死刑確定した平沢は、虚言癖記憶障害判断力低下もたらすコルサコフ症候群狂犬病予防接種副作用)にかかっており、過去銀行詐欺事件帝銀事件自白コルサコフ症候群による虚言ではないか指摘する意見がある。 平沢自白以外に決め手となる物証乏しいことや、捜査当初旧陸軍関係者犯人として推測されたことなどもあって、平沢真犯人とした確定判決疑問を持つ人も少なくなく、「平沢貞通氏を救う会」が結成されたほか、自民党大野伴睦日本社会党田英夫はじめとする超党派国会議員のほか、作家松本清張といった文化人法曹関係者らが、死刑執行停止再審恩赦救援活動展開したこうした動き平沢高齢配慮して歴代法務大臣死刑執行見送ったことから、平沢処刑されることはなかった。 平沢は、死刑確定してから1カ月半後の1955年6月第1次請求以来17回(平沢死後養子が行ったものを加えれば19回)に及ぶ再審請求行ったものの、いずれも棄却された。恩赦出願1962年から5回行ったが、法務省設置され中央更生保護審査会はいずれも「恩赦不相当」の議決をしている。また、死刑確定してから30年経過した1985年には「死刑時効成立する」として、身柄の釈放求め人身保護請求裁判起こしたが、「拘置中の死刑囚には時効進行しない」として棄却された。その直後平沢は、「心神喪失準ずる扱いをすべきだ」と死刑執行停止求めたが、法務省拒否回答をした。重体陥った後の1987年3月末には、「死刑執行という目的失った拘置違法だ」として、釈放求め人身保護請求裁判改め起こしている。 長年宮城刑務所収監されていたが、その後高齢のため体調崩し1987年5月10日午前8時45分八王子医療刑務所肺炎患い獄中病死した。95歳没。39年間に渡る獄中生活1万4142日を数え確定死刑囚としての収監期間32年当時世界最長記録であった本通夜養子平沢武彦喪主として、5月12日昼、平沢帝銀事件発生時まで家族暮らしていた場所に近い宝仙寺で、事実上密葬として行われた告別式5月24日青山葬儀所おこなわれた

※この「帝銀事件以後」の解説は、「平沢貞通」の解説の一部です。
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