帝銀事件以後
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実力派の画家としての地位を確立していた平沢は、1948年1月26日に帝国銀行(後の三井銀行。現在の三井住友銀行)椎名町支店で男が行員らに毒物を飲ませ12人を死亡させた事件(帝銀事件)の犯人として同年8月21日、突如警視庁に逮捕された。類似事件で使用された名刺を受け取っていたが持っていなかったこと(平沢は財布ごとスリにあったと主張)、過去に銀行相手の詐欺事件を4回起こしていたり、出所不明の現金を持っていたのが決め手ともいわれる。この現金については松本清張らが、当時画家として名が売れていた者としては不名誉な副業(春画作成など)で得たものと推理している。 平沢は取調べで自白をしたが、公判で無実を主張。しかし、裁判では1955年に死刑が確定した。平沢は、虚言癖や記憶障害や判断力低下をもたらすコルサコフ症候群(狂犬病予防接種の副作用)にかかっており、過去の銀行詐欺事件や帝銀事件の自白もコルサコフ症候群による虚言ではないかと指摘する意見がある。 平沢の自白以外に決め手となる物証が乏しいことや、捜査当初、旧陸軍関係者が犯人として推測されたことなどもあって、平沢を真犯人とした確定判決に疑問を持つ人も少なくなく、「平沢貞通氏を救う会」が結成されたほか、自民党の大野伴睦、日本社会党の田英夫をはじめとする超党派の国会議員のほか、作家の松本清張といった文化人や法曹関係者らが、死刑の執行停止や再審、恩赦の救援活動を展開した。こうした動きや平沢の高齢を配慮して、歴代の法務大臣も死刑の執行を見送ったことから、平沢が処刑されることはなかった。 平沢は、死刑が確定してから1カ月半後の1955年6月の第1次請求以来計17回(平沢の死後に養子らが行ったものを加えれば計19回)に及ぶ再審請求を行ったものの、いずれも棄却された。恩赦出願も1962年から5回行ったが、法務省に設置された中央更生保護審査会はいずれも「恩赦不相当」の議決をしている。また、死刑が確定してから30年が経過した1985年には「死刑の時効が成立する」として、身柄の釈放を求める人身保護請求の裁判を起こしたが、「拘置中の死刑囚には時効は進行しない」として棄却された。その直後平沢は、「心神喪失に準ずる扱いをすべきだ」と死刑の執行停止を求めたが、法務省は拒否の回答をした。重体に陥った後の1987年3月末には、「死刑執行という目的を失った拘置は違法だ」として、釈放を求める人身保護請求の裁判を改めて起こしている。 長年宮城刑務所に収監されていたが、その後高齢のため体調を崩し、1987年5月10日午前8時45分に八王子医療刑務所で肺炎を患い獄中で病死した。95歳没。39年間に渡る獄中生活は1万4142日を数え、確定死刑囚としての収監期間32年は当時の世界最長記録であった。本通夜は養子の平沢武彦を喪主として、5月12日昼、平沢が帝銀事件の発生時まで家族と暮らしていた場所に近い宝仙寺で、事実上の密葬として行われた。告別式は5月24日に青山葬儀所でおこなわれた。
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