居留民の悲劇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 00:44 UTC 版)
関東軍はソ連攻撃時の満州居留民に対する方針について検討を先送りして具体的な対策を決めていなかった。しかし、関東軍が居留民退避に対して無関心であったということではなく、ソ連による中立条約破棄通告があったときには、関東軍司令部は各省の首脳や開拓団の代表者を招集し「近く予想されるソ連の侵攻に対する準備」を議題として長時間の討議を行っている。その席で開拓団はおおむね楽観的で「満州は我ら墳墓の地、移るとすれば天国のみ」とか「ソ連の侵攻に対しては、老若婦女子も剣を持って起ち、軍と運命をともにすることを光栄とする」などの意見が出されて、関東軍より提案のあった退避には消極的であった。関東軍はその後も居留民に日本本土への退避を促したが、日本本土はB-29の空襲が開始されていたのに加え、満州は食料などの物資が豊富であり、積極的に退避する居留民は少なかった。 8月9日にソ連参戦の情報が入ると関東軍は慌てて国境付近に居住している居留民に速やかな避難を示達したが、混乱のなかで十分には伝わらなかった。満州国の首都新京においては、満州国と日本政府の関係者、関東軍、満州鉄道などが集まって対策会議が開催され、軍からは新京防衛戦のため居留民の速やかな退避の要求があり、政府関係者からは「新京陥落まで家族と踏みとどまる」などの意見が出され、最終的には満州鉄道が避難のための臨時列車を出し、8月10日午後6時を一便として「居留民」「政府関係者」「軍」の順で新京から退避することが決定された。しかし、状況が切迫する中で、老人、妊婦、病人が優先される以外については駅に到着次第順に列車に詰め込まれるという状況になって、「居留民」「政府関係者」「軍」の順は最初から崩れてしまった。結局、避難列車第一便も大きく遅延し、8月11日1:40に新京を出発した。この後も2時間おきに列車が出発したが、故障続発で避難は捗らなかった。もっと悲惨な状況となったのは国境などの辺境からの避難民で、ソ連軍や暴民からの暴虐によって凌辱されたり、命をうしなうものも多数に上って、戦時中に死亡した居留民は3万人にも上った。暴虐な目にあわなかった避難民も飢餓や疫病に苦しみ、やむを得ず我が子を現地民に託すこともあり、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。 庇護を失った住民を救うため、関東軍の一部将兵や鉄道警備隊や警官などが乏しい装備でソ連軍に立ち向かい鋒鏑に倒れるといった悲壮な状況も各地で見られることとなった。その例として、関東軍第5練習飛行隊の二ノ宮清准尉ら10人が、葛根廟事件などの虐殺事件を目のあたりにし、ソ連軍に一撃を加え居留民の避難する時間を稼ぐために、10機の練習機で特攻出撃した「神州不滅特別攻撃隊」がある。特攻機には特攻隊員の婚約者の女性2人も同乗しており、特攻隊員10人と婚約者2人はソ連軍戦車部隊に特攻し戦死した。 関東軍は、各戦域で敢闘して一部でソ連軍の進撃速度を遅らせ、居留民の避難の時間稼ぎをしたが満州全域においては多くの居留民が戦禍に巻き込まれることとなり、1945年時点で満州に在住した150万人の居留民のうち、戦時中に死亡した3万人に加え、戦後に餓死・病死したり行方不明になったものも含めると13万人が帰らぬ人となった。それでも、満州からは朝鮮半島経由も含めて約135万人が戦後に日本本土に帰国できた。結果的に多くの居留民を避難させることに成功した関東軍に対して、ソ連(現ロシア)には、「関東軍は臨機応変に後退し、避難民撤退の時間稼ぎをしながら、持久戦を展開した。ソ連軍は、8月13日に牡丹江を占領したが、15日の時点では、満州の主要都市は陥落していなかった」という肯定的な評価もある。
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