少年時代: 1931-1950
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「デズモンド・ムピロ・ツツ」の記事における「少年時代: 1931-1950」の解説
デズモンド・ムピロ・ツツは1931年10月7日にクラークスドープ(英語版)で生まれた。母親のアレン・ドロテア・マヴォエルツェク・マタラレはボックスバーグ(英語版)に住むモツワナ人の一家の生まれだった。父親のザカリア・ゼリロ・ツツ(Zachariah Zelilo Tutu)はコーサ人のanaMfengu支族の出身であり、グクワ(現東ケープ州のバターワース(英語版))で育った。この夫婦は家庭内ではコーサ語を使用していた。ザカリアはラヴデール(英語版)校で小学校の教師としての教育を受けた後にボックスバーグで就職し、そこで妻アレンと結婚した。1920年代後半、彼はアフリカーナーが建設した都市、クラークスドープで職を得た。ザカリアとその妻は、その町の黒人居住区に住んでいた。この居住区は1907年に創設され、後にマコエテンド(Makoetend)と改名されたが、「土着の場所(native location)」として知られていた。ここには多様なコミュニティが暮らしていた。大部分はツワナ人だったが、コーサ人、ソト人、そして少数のインド人商人も暮らしていた。ザカリアはメソジストの小学校で校長(the principal)として働き、家族は校長邸で暮らした。これは、このメソジストの学校の庭にある小さな泥レンガの建物であった。 ツツの一家は貧しかった。家族についての説明で、ツツは後にこの点について「私たちは裕福ではなかったが、極貧というわけでもなかった。」としている。ツツには姉シルヴィアがおり、彼女はツツを「ムピロ(命)」と呼んでいた。この名前は父方の祖母から彼に与えられたものである 。他の家族は彼を「ボーイ(Boy)」と呼んでいた。ツツは次男であった。長男のシポ(Shipo)がいたが、彼は幼少の頃に死亡した。ツツは誕生した時からポリオに犯されていた。この結果、彼の右手は小さく萎縮し、またある時には深刻な火傷を負って入院した。彼は父親と非常に仲が良く、父が大好きであったが、父が大酒飲みでしばしば母を叩くことに怒っていた。一家は当初メソジストに所属し、ツツも1932年7月にメソジストの教会で洗礼を受けた。彼らはその後、まずアフリカ・メソジスト聖公会(英語版)に、次いで聖公会に宗旨替えをした。 1936年、一家はツィング(英語版)に移り、ザカリアはそこでメソジスト学校に校長として採用された。彼らは学校の庭にある小屋で生活した。ツツはそこで初等教育を受け始め、他の子供たちとフットボールをし、聖フランシス聖公会に奉仕するようになった。彼は読書を愛するようになり、特にコミックとヨーロッパの御伽噺を楽しんだ。また、ここで地域の主要言語であるアフリカーンス語を学んだ。そしてこの地で、ツツの両親にとって3番目の息子であるタムサンカ(Tamsanqa)が生まれたが、彼もまた幼くして死んだ。1941年頃、ツツの母はヨハネスブルク西部の視覚障碍者施設であるエゼンゼレニ(Ezenzeleni)のコックとして働くためウィットウォータースランドへ移った。ツツは彼女についてその街に入り、タウンシップ内に自分たちの家を確保するまでは西ロードポート(英語版)に叔母と一緒に住んでいた。ヨハネスブルクで、彼はメソジストの小学校に入り、その後聖アグネス・ミッション(英語版)のスウェーデン人寄宿学校(英語版)(SBS)に移籍した。数か月後、彼は父親と共に東トランスヴァールのエルメロ(英語版)に移った。6か月後、2人は西ロードポートに残った家族と一緒に生活するために戻り、ツツはSBSに復帰した。ツツはキリスト教への興味を募らせ、12歳の時にロードポートの聖メアリー教会で堅信を行った。 ツツは小学校の算数分野の試験に落第したが、それでも彼の父は1945年にツツをヨハネンスブルクのバントゥー高校に入学させた。この学校でツツは優秀な成績をあげた。ラグビーユニオンのチームに参加し、それ以来生涯にわたってこのスポーツを愛した。学校の外では、オレンジを売ったり、白人のゴルファーのキャディーをして金を稼いだ。通学にかかる電車代を節約するため、家族と共に一時的にヨハネスブルクの近郊に住んだが、その後両親と共にマンシーヴル(英語版)に戻った。ツツはヨハネスブルクに戻ってホステルに入った。このホステルはソフィアタウン(英語版)にあるキリスト・ザ・キング教会(Church of Christ the King)周辺にある聖公会の施設の一部であった。ツツはこの教会で奉仕するようになり、その祭司であったトレヴァー・ハドルストン(英語版)の影響を受けるようになった。1947年、ツツは結核を患い、リットフォンテン(英語版)で18か月間入院した。その間、大部分の時間を彼は読書に費やした。入院した病院で彼は成人であることの証として割礼を受けた。1949年、ツツは学校に戻り、1950年の後半に国家試験で@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}第二級合格証[訳語疑問点]を取得した。
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