容共から反共へ-武漢国民政府時代-とは? わかりやすく解説

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容共から反共へ-武漢国民政府時代-

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 23:36 UTC 版)

汪兆銘」の記事における「容共から反共へ-武漢国民政府時代-」の解説

武漢国民政府」も参照 党・軍での権力確立したかにみえた蔣介石であったが、それまで党内業務関係していなかった蔣が共産党員内部かかえた党を取り仕切るのは困難で、1927年3月、蔣は汪兆銘フランスからの帰国要請した国民党左派共産党は、3月武漢ひらかれた国民党第二期第三回中央委員会優位確保したのに対し蔣介石国民革命軍主流は、上海財界支持背景として林森国民党西山会議派とも提携して、これに対抗した。 蔣の招電に応じて4月1日ソ連経由上海到着し再帰国した汪は、中央常務委員組織部長に返り咲いた汪兆銘蔣介石上海会談したが、汪は蔣の国共合作解消要求には応じず、代わりに国民党中央全体会議開催することにより、左派共産党蔣介石勢力との間の対立調停すべきことを提案した。しかし、結局蔣介石共産党との調停には成功しなかった。汪は一方で中国共産党との話し合い入った4月5日汪兆銘共産党中心人物である陳独秀とともに中国国民党多数同志、およそ中国共産党理論およびその中国国民党対す真実態度了解する人々は、だれも蔣総理の連共政策をうたがうことはできない」との共同声明(汪・陳共同声明)を発表したこの声明は、汪が国民党内でも蔣とのあいだに路線対立があることをなかば認め共産党は汪との協力のもとで蔣排斥立場にあることを示唆しつつ、蔣が容共政策を採ることを求めるという内容であった。 汪が上海から武漢向かった直後4月12日蔣介石は汪が当てにならない判断し反共クーデター上海クーデター)を断行し共産党弾圧乗り出した蔣介石李宗仁の軍が、共産党系の労働団体である上海工会武装行動隊武装解除し流血惨事となったのである。これは、3月南京入城果たした国民革命軍日本イギリス領事館アメリカ系大学など侵入して略奪暴行はたらいた南京事件背後に、反帝国主義掲げ中国共産党ソ連顧問暗躍があると蔣が判断し危惧したために引き起こされたといわれている。 武漢国民政府は、即座に蔣介石すべての職務から解任し、国民党からも除名した。しかし、4月18日蔣介石江蘇省南京反共掲げ新し国民政府主席胡漢民)を組織し共産党影響の強い武漢国民政府から離脱した。蔣は、国民党内から共産党員やその同調者国民党左派などを摘発し逮捕ないし殺害する「清党運動」を広げていった。 汪兆銘武漢政府残り蔣介石逮捕令を発した。ところが4月下旬武漢漢口埠頭には英米日仏伊などの軍艦42隻が揃い武漢政府威圧加えた武漢駐在外国企業活動停止し企業家たちは武漢離れ政府破産状態に陥りかけた。 こうしたなか、6月1日ヨシフ・スターリンからの新し訓令中国在留コミンテルンインド人革命家マナベンドラ・ロイのもとにもたらされたことを契機として、汪も変心する。ロイはこの秘密電報汪兆銘示し訓令承認せまったが、その内容は「革命法廷」を設けるなど、内政干渉度合いきわめて強く中国主権大きく侵害し私有財産否定する内容だったのである中国における革命運動の激化は、かえって汪兆銘共産党への強い警戒心植え付けさせ、反革命立場立たせることとなった。汪は7月入って共産党絶縁することを決意し武漢にて「分共」(=清党)工作進めた7月13日共産党コミンテルンからの指示もあって武漢政府から退去し7月15日中国国民党共産党批判行い従来容共政策破棄宣言して3年半におよぶ第一次国共合作はここに崩壊した。 「反共産党」の立場で汪と蔣の意見一致したことから、武漢政府南京政府再統一スケジュールにのぼり、1927年8月蔣介石一時的に下野することを条件に両政府合体することとなったこうしたなか、孫文未亡人宋慶齢のみは国民党のなかにあって容共路線継続主張しソビエト連邦亡命した蔣介石渡日し、田中義一首相らと会談する一方宋慶齢の妹宋美齢との結婚話を進めた1927年9月武漢政府瓦解し南京国民政府合流した

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