宗教言語
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メデファイドリン (Medefaidrin) - ナイジェリアのイビビオ族による典礼言語。
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宗教、言語
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「オスマン時代のブルガリア」の記事における「宗教、言語」の解説
タルノヴォ陥落直後、ブルガリア人の学者や思想家の中には騒乱を避けてアトス山の修道院に逃れた者もいた。タルノヴォ陥落翌年の1395年にブルガリア正教会は廃止され、ブルガリア教会はコンスタンティノープル総主教の下に置かれることになった。このため、オフリド大主教座を除いたブルガリア教会の高位聖職者の大部分はコンスタンティノープルで任命されたギリシャ人で占められていた。しかし、管区には多くのブルガリア人司祭が任命され、ブルガリア人司祭はブルガリア人コミュニティの指導者的な役割を果たしていた。1767年にオフリド大主教座は廃止され、ギリシャ人がブルガリア内の教会の行事と教育を司るようになる。ブルガリア人聖職者はギリシャ人によって支配された状態にあるブルガリア教会の再独立を求め、18世紀末から兆候が表れ始めた民族再生運動は、聖職者たちの活動が端緒となった。また、16世紀と17世紀にはロシアの影響力の抑止を試みたローマ教皇庁とオーストリアによって、ブルガリアでのカトリックの布教が推進された。カトリックを信奉するブルガリア人も、独立運動に身を奉げていた。 オスマン帝国の住民は宗教によって区分され(ミッレト)、キリスト教徒のミッレトには自治が認められていた。キリスト教徒は一定の平和を享受する事が出来たがイスラム教徒と対等の地位を認められることはなく、教会建築、衣服の色には制限が加えられ、イスラム教徒よりも高い税金が課せられていた。教会・礼拝所の建築・改築には多大な費用、時間を要したが、ブルガリア各地で徐々に教会建築の運動が広がり、教会の建築は支配者の宗教であるイスラム教に対抗する意義を持ち始める。 現地のキリスト教徒と外来のイスラム教徒の融合、税の軽減などの個人的な目的による改宗により、ブルガリアのイスラム化は長い時間をかけて緩やかに進行していった。ブルガリア人のイスラム教への改宗の理由については、様々な意見が出されている。軍事・交通の要衝であるブルガリアではイスラム化が他の地域よりも強く推進され、ブルガリア人領主の中には土地を確保するために進んで改宗した者もいた。また、キリスト教の教会や修道院の財産の略奪の認可と引き換えに、村全体がイスラームに改宗した事例も存在する。17世紀後半にはロドピ山脈一帯の住民が改宗を強制される事件が多く起きるが、ヨーロッパを攻撃するオスマン軍の士気の高揚、あるいはロドピ山脈を通る道路をイスラム教徒に管理させることを試みたことが背景にあったと考えられている。改宗によって生まれたブルガリア語を話すイスラム教徒は、ポマクと呼ばれるようになる。ブルガリアの山間部には、改宗したスラブ系のイスラム教徒が多く居住していた。 イスラームに改宗した人間のうち、領主の多くはイスラーム化・トルコ化したが、農民の間ではブルガリア語とブルガリアの伝統文化が保たれていた。隔絶された村でブルガリア人が他の民族と混ざり合うことなく生活していたためにブルガリア語以外に伝統、伝承、祭礼も守られ、生き残ったブルガリア語はオスマン時代に一時的に断絶したブルガリア文学の再興に大きな役割を果たす。そして、村で生き残った宗教的な祭礼や祭日は、ブルガリア人の「国民」としての自覚を守り続ける。また、各地の村では修道士が教師を務め、ブルガリア人の識字能力の維持、ブルガリア語自体の発達に影響を与えた。
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宗教・言語
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キリスト教が多数派で、少数のムスリムも暮らす。 殆どの住民がチボク語(英語版)を用いる。
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