宋代の配流と配軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:15 UTC 版)
宋代になると律令が再び整備されたものの、唐末以来の過酷な規定が残されたままであり、多くの死刑囚を生み出していた。それを緩和するために出されたのが、折杖法である。折杖法によって本来流刑にされる者は脊杖(背中打ちの刑)+在所での配役(強制労働)1年(加流刑の場合は3年、女性の場合は淳化4年(993年)以降は免除)によって代替されることになり、実際に配流されることはなくなった。代わって、従来死刑に処せられることになっていた者(通常は律本来の規定にはなく、特別法である格や勅による規定で死刑にあたる者)が皇帝の特恩によって、反対に皇帝によって配流相当とされた政治犯などがその特旨によって配流されるようになった。 宋代における配流およびその関連用語を一括する言葉として、編配と配隷という語がある(どちらも単独の刑罰を指す言葉ではないことに注意)。編配は「配流・配軍・編管」、配隷は「配流・配軍・配役」をまとめた総称にあたる。 このうち、配流が本来宋代における流刑に相当するものである。配流に先立ってまず死刑判決が出され、脊杖20回と刺面(顔に入れ墨を施す)を行なった後に皇帝に死刑判決の確認を求める奏裁を行うために、都(開封、後に臨安)に赴闕(都への護送)が行なわれる。そこで罪人は皇帝に謁見して皇帝より「罪一等減じる」との勅が授けられ、枢密院によって具体的な配流先が決められ(ただし、ここまでの手続は形式として整ったものであり、景徳3年(1006年)以後は冤罪を訴える者など実際に再審理の必要性があるものを除いて皇帝への謁見は省かれた)、唐代と同様に官の監視の下に首枷をはめられて労役に従事した。配流先としてもっとも代表的であったのは、沙門島である。この島は現在の山東省長島県にある長山列島の1つ廟島のこととされている。宋の建国当初は北方には契丹の勢力があり、南方には南唐・呉越などが依然として存在していたためにそうした国境近くの辺境への配流は好まれず、一部で西北辺境などへの配流も行なわれていたものの、主としてこの島への配流が中心となった。宋の天下平定後は南方などの辺境への配流も行なわれることとなるが、依然として沙門島への配流がもっとも重いものとして扱われており、実際にその過酷な環境(自然環境・食糧不足・守衛の官吏や兵士からの虐待など)から命を落とすものは珍しくなく(『続資治通鑑長編』巻119・景祐3年7月辛巳条)、恩赦が出たとしても量移の対象にしかなり得なかった。なお、官人が政治的な理由で配流とされた場合には脊杖・刺面は行われず、沙門島へ送られた場合でも官による一定の保護が存在していた(数が少ないものの、配軍にされた官人に対しても脊杖・刺面は免除された)。その後、配流とされた者でも咸平元年(998年)沙門島に流す程でもないとされた雑犯者は各地の軍隊の下に送られて労役に従事し、景祐3年(1036年)には沙門島への配流者を広南路の遠悪州軍(辺境の環境の悪い地域の軍)に振り替えて沙門島へ流す人数を減らした。 一方、配軍は赴闕の後に各地の軍隊に配属され生涯にわたって兵役に就く刑罰である。必ずしも辺境に送られるものではなく、初期の頃は居住する州にある廂軍などの雑用を行う部隊に配置されることが多かった。(なお、当時は一般の兵士でも刺面して一般人との区別を行なう習慣があり、そうした意味でも軍隊は労役を行なわせる場所に相応しかった)。配軍の原型は配流者の増加の対策の一環として太平興国9年(雍熙元年:984年)に窃盗で死刑に相当する者に無期限の労役としたのが起源である。それが雍熙2年(985年)になって本城軍(居住州の軍隊)での労役、すなわち配軍に変更されたのである。その後、咸平4年(1001年)になって福建・広南・江浙・荊湖の強盗・持仗(劫盗)は都から遠隔であることを理由に赴闕を行なわずに五百里以上離れた軍への配軍が行なわれるようになった。更に天聖8年(1030年)には二千里以上離れた軍への配軍が実施される例も現れる。こうした措置の背景には凶悪犯の中には居住地の軍隊に配軍した場合、現地に住む被害者や告発者およびその関係者に被害が加えられる可能性があることを危惧したとされている。このように、11世紀前半になると配流の対象として軍隊が加えられ、配軍の対象が遠隔地に移動が加えられたことで、本来別の内容であった配流と配軍の区別がほとんど失われ、死と隣り合わせであった沙門島への配流を頂点とする序列が形成されることになった(ただし、沙門島自体が後に金に奪われており、配流先からは消えることになる)。 流刑とは異なるものの、共通する部分を有する刑として配流・配軍と一括にされたものとして編管と配役がある。編管は罪を犯した者が、居住州から隣接する州、または五百里・千里などの距離が離れた州に移されて簿籍に附けて官吏の監視下に置かれる措置である。唐以前の流刑と似たような側面を有しているものの、宋の配流・配軍のような終身の労役は課されず、免除されるか有期の配役であり、当初は無期の編管や期間終了後の現地の戸籍への強制的な編入もあったものの、北宋末期には恩赦がなくても6年後には放還される(事実上刑期を6年とする)ことが制度化されていた。これは、編管の主たる目的な罪人を居住地から切り離して監視下におくことであり、遠隔地への追放や労役を目的とした流刑とは異なる要素を持った刑であったことによる。配役は前述のように軍隊を含めた役所での有期の強制労働であり、本来の流刑に対する折杖法に基づいた代替刑の1つとしても行われていた。
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