字小森
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 15:47 UTC 版)
畑中孝二 奈良県の大和盆地にある坂田村の字小森(被差別部落)出身。父・畑中進吉と母・畑中ふでの次男。誠太郎の弟。母親似である。坂田尋常小学校を卒業後、松川高等小学校に進学。成績優秀で副級長に選ばれる。もの静かで思索的な男子。内気とみえて芯は激しい(モデルは木村京太郎)。村上秀昭の影響もあり、多くの詩人や思想家にのめり込む。 畑中誠太郎 父・畑中進吉(日露戦争で戦死)と母・畑中ふでの長男。兵隊ごっこの好きな腕白であったが、勉強は好きでよく出来た。坂田尋常小学校卒業(義務教育修了)後、大阪の米問屋(安田家)に丁稚奉公に出る。のちに主人の娘・安田あさ子と結婚する。畑中孝二の兄で、4歳違い。親友は松崎(渡辺)豊太。父親譲りで口が特別大きいことから「鮟鱇(あんこう)」というあだなで呼ばれる。また大食いである。 畑中ふで 誠太郎と孝二の母親。夫の畑中進吉は、日露戦争で戦死した。下川村の字・井野(小森から約6キロ離れたところにある)に生まれ育ち、小森の畑中家に嫁入りした。旧姓は「峯村」。父は峯村惣七。美人というほどではないが色白で丸顔、どことなく愛嬌があり、近所の人にも好かれる。 畑中ぬい 誠太郎と孝二の祖母。畑中進吉の母親。夫・畑中文四郎(誠太郎・孝二の父方の祖父)を、進吉の戦死後3年ほどで亡くしている。貧しく無学(文盲)ではあるが知恵と力に満ち、愛情深く、たくましい姑。明治天皇と同じ嘉永5年(1852年)生まれ。明治4年、20歳のときに、小森の畑中家へ嫁に来た。女性には珍しいほど大きな口をしている。 畑中進吉 故人。誠太郎と孝二の父親。明治37年(1904年)2月10日、対露宣戦布告が発せられて間もなく召集され、第二軍に属し、4月広島を出立し、5月遼東半島に上陸。激戦を重ね、沙河の会戦(10月9-20日)で形勢不利に陥ったのち、それを挽回するための決戦で、同年12月3日、戦死。享年30。父の進吉が戦死したとき、長男の誠太郎は数えで7歳、二男の孝二は数え3歳であった。 村上秀昭 学力と画才に恵まれ進学したが、その才能が開花するにつれて世間に出自を知られ差別される恐怖が重くのしかかり、小森に戻って来てしまう。穢多寺の嫡子(モデルは西光万吉)。 志村かね 差別への諦念を示しながらも、差別によって夫や息子を亡くしている為その心中は複雑。大のおしゃべり好きで男衆にはしばしば閉口されるが、ぬいやふでは大抵相づちをうちながら耳を傾けてやっており、それが一番角が立たないと長年の付き合いから心得ている。 志村貞夫 孝二の終生の友。志村本家の男子。孝二とまちえの関係を冷やかすことも多かったが、その度に孝二はある種の葛藤や強い否定を独白している。普段は孝二と気のおけない仲。 永井藤作 窮すれば畑中家の水を盗んだり自身の娘を売る男だった。しかし、作中の時間の流れや数々の出来事、事件の中で藤作もまた変わっていく。事件のひとつとして、孝二が可愛がっていた藤作の息子の武は、失火で小森を焼いた後、周囲の蔑視に堪えきれず幼くして自害してしまった。 永井しげみ 藤作の娘。とても気性が激しく、はちめろ(お転婆というより暴れん坊の女子)と呼ばれた。かねの息子の清一と想い合うが、互いの親の不仲により、大阪で無念の心中を遂げた。
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