大型ロケット開発成功と諸問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 01:38 UTC 版)
「日本の宇宙開発」の記事における「大型ロケット開発成功と諸問題」の解説
宇宙開発事業団はLE-5エンジンを成功させ、日本国内での技術が進捗したことも鑑み、国内技術をより高めるために純国産液体燃料ロケットを開発することを決めた。開発は1984年から始められた。H-IIロケットはすべてを一から再設計したものである。1段目のエンジンも完全国産を目指し、その開発は難航した。日本が新型の1段目として開発していたLE-7ロケットエンジンは、高圧の水素・酸素ガスの燃焼を利用するもので、振動による部品破損や、材料の耐久性などの問題を解決するのに時間がかかった。水素が漏れることによる爆発も起きた。固体ロケットブースターには宇宙科学研究所で研究が続けられてきた固体ロケットの技術を生かすことになった。開発には10年かかり、H-Iの最後の打ち上げから2年後の1994年に1号機を打ち上げることになった。2月3日に打ち上げる予定であったが、フェアリングの空調ダクトが発射台から落ちたために1日延期し、2月4日に液体ロケットとしては初めて完全国産となったH-IIロケットの1号機が打ち上げられた。 一方、宇宙科学研究所は1989年の宇宙開発政策大綱の変換でより大型のロケットの開発が可能になり、固体燃料ロケットで惑星探査が出来るロケットの開発を1990年から始めた。こちらもロケットモーターの開発で問題が発生した。開発が長引き、M-3SIIロケットの最終飛翔からやはり2年後の1997年にM-Vロケットが完成した。ロケットの空白期が生まれたために、火星探査機のぞみは打ち上げを2年延期することになった。 こうしてロケットの開発が進んだ日本であったが、1990年(平成2年)には米国貿易政策「スーパー301条」が適用され、日本が国内で使用する実用衛星も国際競争入札にしなければならなくなった。これによって実用衛星の打ち上げに関しては、より安価に打ち上げることの出来る米国製のロケットが多くを持っていき、また、少数生産で高コストの国産衛星は、大量生産で低価格の欧米の商用衛星に敵わず、ひまわり5号の後継機は米国製の完成品購入になった。みどりのような環境観測のための衛星や、はるかのような天文衛星など科学衛星や実験衛星は日本のロケットで打ち上げられることがほとんどであり、これらの衛星は大きな成果を上げた。しかし、商用衛星の打ち上げが海外に流れたことは現在に至るまでロケットの商用打ち上げの実績を積むことができない理由ともなった。 また、1990年代後半から2000年代初めにかけては新たに開発した大型ロケットで躓くことになった。H-IIロケットの5号機と8号機が連続で打ち上げに失敗し、M-Vロケット4号機も打ち上げに失敗。火星探査機のぞみは軌道投入に失敗した。これらの失敗と折からの行政改革の動きが重なり、宇宙機関の統合が政府で提案されるようになった。組織間の連携の強化、機能の重点化、組織体制の効率化などを行う計画が立てられ、宇宙開発事業団は、H-IIロケットの打ち上げ失敗を反省してロケットの再設計と簡素化を行い、2001年にH-IIAロケットの初打ち上げを成功させたが、2003年10月1日に宇宙科学研究所(ISAS)、宇宙開発事業団(NASDA)、航空宇宙技術研究所(NAL)が統合され、文部科学省の下で宇宙航空研究開発機構(JAXA)が発足した。
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