大仁田厚体制
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「フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング」の記事における「大仁田厚体制」の解説
1989年10月6日、露橋スポーツセンターで旗揚げ戦を開催。7月2日、「格闘技の祭典」で遺恨が勃発した大仁田と空手家の青柳政司との抗争を軸に元全日本プロレス所属選手のターザン後藤や元新日本プロレスの栗栖正伸も参加。初期におけるFMWは、その団体名が示す通り柔道、キックボクシング、テコンドーなどプロレス以外の格闘家が参加しており異種格闘技戦的な要素が強かった。しかし、その意味付けは当時隆盛だったUWFへの対抗心(あるいは皮肉)によるところが大きく「総合格闘技オープントーナメント」と銘打たれた大会で栗栖がイス攻撃を駆使して優勝したりボクシングの元世界チャンピオン、柔道メダリスト、空手家、プロレスラーなどのタッグチームが競う「世界最強総合格闘技タッグリーグ戦」を開催。 FMWの看板と位置付けて行ったのがデスマッチとストリートファイトマッチなどである。資金難を始め様々な面で既存メジャー団体に劣っていたFMWが選んだのは「何でもあり」をキーワードにしてのアイデアで勝負する道だった。有刺鉄線デスマッチを皮切りに数々の「日本初」を敢行。1990年8月4日、レールシティ汐留大会で開催した大仁田と後藤の「究極のデスマッチ」、ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチでFMWの浮沈をも賭けた。その思惑は当たりFMWは一躍注目を浴びるようになった。1992年5月6日には兵庫県三田市でファイヤーデスマッチを日本で初めて開催して大きな話題となる。 多様な格闘家、奇抜な試合形式、男女混合、怪奇派レスラーなどが行われて大仁田が「おもちゃ箱をひっくり返したような」と表現した団体色は一大センセーションを呼びUWFを除けば当時のメジャー団体だった新日本と全日本に匹敵する第3勢力になった。 大仁田はFMWの宣伝目的もありテレビ等に極力出演してタレント並みの知名度を得た。このことによりFMWの知名度も全国区になりニュース番組やTBSの番組「ギミア・ぶれいく」などでドキュメンタリーが放送された。後にライバルのミスター・ポーゴの退団などもあったものの、ザ・シーク、タイガー・ジェット・シンといった新たなヒールレスラーも獲得して1991年には川崎球場で興行を開催。因みに、その同じ日に10kmくらいの距離の先の横浜市では新日本プロレス横浜アリーナ大会が開催されて1万8千人もの観客を動員したこともあり「時期尚早では?」と言われていた、しかし蓋を開けてみれば約3万3千人の動員に成功。1992年には横浜スタジアム、1993年には2度目の川崎球場と阪急西宮球場で興行を開催して経営規模は順調に拡大していった。その一方で全国各地の駐車場や空き地での小さな興行も欠かさず行い、津々浦々にファンを増やしていった。 デスマッチ中心のプロレス団体として1991年に分裂した社長の茨城清志(元渉外担当)、ポーゴらが率いるW★INGプロモーションとは激しい興行戦争となったが資金面に劣るW★INGから看板選手であったポーゴらを引き抜きW★INGを壊滅させてインディー団体の最高峰に立つまでに成長。 1994年5月5日、FMW川崎球場大会で自らの土俵である電流爆破マッチに持ち込みながらも天龍源一郎に敗れた大仁田は引退を決意。1年間の引退シリーズを経て1995年5月5日、FMW川崎球場大会で引退試合を行う。最後の対戦相手は当初は後藤が予定されていたが突如、ミスター雁之助、市原昭仁らと共に退団。対戦相手の再考を余儀なくされた大仁田は名乗りを上げていた東京プロレスの石川敬士を指名。さらに試合の調印直前で名乗りを上げた弟子であり次代のエースのハヤブサに石川の了解を得て変更して引退試合を行った。
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