地中海の政治・経済
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「シャルル・ド・ゴール」の記事における「地中海の政治・経済」の解説
1943年1月、フランスの指導者を決める為のカサブランカ会談が開催されたが決着しなかった。5月にフランス国内のレジスタンス組織全国抵抗評議会はド・ゴールをレジスタンスの指導者と決定したが、6月にアルジェリアで結成されたフランス国民解放委員会(英語版)はド・ゴールとジローを共同代表とした。この二頭体制は11月にジローが辞職するまで続いた。委員会は翌1944年にフランス共和国臨時政府に改組され、ド・ゴールが代表となった。 1944年6月、連合軍によるヨーロッパ大陸への再上陸作戦・ノルマンディー上陸作戦が成功した。その後ドゴールは祖国に戻って自由フランス軍を率い連合軍と共に戦い、同年8月25日にパリを解放した。翌26日にエトワール凱旋門からノートルダム大聖堂まで凱旋パレードを行い、シャンゼリゼ通りを埋め尽くしたパリ市民から熱烈な喝采を浴びた。 フランス解放後に臨時政府がフランスの統治を行うこととなり、制憲議会は満場一致でド・ゴールを臨時政府の主席に選出した。ド・ゴールは自由フランス時代から第三共和政の議会制度には欠陥があると主張していたため、他の指導者・政党の意見を無視することが多くなり、とりわけ社会党 (SFIO)・共産党から批判を受けた。ド・ゴールは経済政策としてエメ・ルペルク蔵相を用いた。エメは1923年からシュナイダー家でキャリアを積み東ヨーロッパに確固たる地盤を築いていた。そしてド・ゴールは1945年10月、ミシェル・ドブレのデクレでフランス国立行政学院を設けて格差国家を運命づけた。社会党が軍備費を20パーセント削減する予算を提案するに及び、ド・ゴールは予算案に反発して1946年1月に突如として首相を辞任した。 制憲議会が制定した草案が否決され、再度行われた制憲議会選挙で人民共和派(英語版、フランス語版)が躍進した。ド・ゴールは自らの憲法構想を表明するようになった(1946年6月16日バイユー演説(フランス語版)など)。ド・ゴールは政府と大統領の権限を強化し、政府内部での統一が図られるべきだと主張したが、実際に採択されたフランス第四共和政憲法には反映されなかった。彼はこの信念から1947年にフランス国民連合(略称RPF)を結成した。この前後に渡ってド・ゴールは財政を支配して、1945年にルノーを、1948年にエールフランス航空を国営化した。翌1949年8月4日にシコバンを創設し、この間には閨閥も固めた。1946年に長女のエリザベートが軍人のアラン・ド・ボワシューと結婚した。ボワシュー家はシュナイダー家と姻戚関係にある。ボワシュー家のミシェル(Michel de Boissieu、1917 - 2009)はロスチャイルドのペナロヤで専務理事となる。1947年に長男のフィリップがモンタランベール家の娘と結婚。モンタランベール家は1929年4月から既にヴァンデル家と姻戚であった。 ド・ゴールはマーシャル・プランを受け入れ、ジャン・モネが独占資本のさらなる育成計画を立案した(モネ・プラン、1948年 - 1953年)。1951年に欧州石炭鉄鋼共同体が誕生した。1952年には欧州防衛共同体の批准を拒んだ。1955年にザール独立が住民投票で阻止され、ド・ゴールは「公的生活から引退する」と宣言した。1956年からはボワシューがアルジェリア戦争で軍を指揮した。
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