国際流動性の危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:32 UTC 版)
「イングランド銀行」の記事における「国際流動性の危機」の解説
1954年、ロンドン金市場再開。1939年の開戦以来。同市場で南アフリカ準備銀行の代理人を務める。ロイ・ブリッジという為替ディーラーの仲介で国際決済銀行と以下の諸点を確認。イングランド銀行への事前の照会や合意がなくても国際決済銀行は南ア銀行とイングランド銀行金庫室=ロンドン金現物市場で取引をする。国際決済銀行は南アフリカから週あたり最高10万オンス以上は購入しない。その最高額を引揚げるときは事前に通知する。1957年、ポンド危機。公定歩合7%に上昇。1958年、他のヨーロッパ主要国とともに、非ドル地域で保有するポンドに限り交換性を回復した。 1962年初め、金プールの代理人として参加国 中央銀行に承認される。認められる前は、金プールの前身となるシンジケートにおいて、そこから使用した正金の量をイングランド銀行は毎月末ニューヨーク連邦準備銀行に報告し、そのあとイングランド銀行がシンジケートの誰に保証金を支払わなければならないかNY連銀の指示を待った。 1964年、1966‐1967年、ポンド危機。1966年、クラインワート・ベンソン・ロンズデール(現ソジェン)によるゴールド・フィックス会員シャープス・ピクスレーの買収を主導した。1968年、ロンドン金市場崩壊、ユーロクリア誕生。1971年、シリングを廃して1ポンド=100ペンスの10進法とする。また、スミソニアン協定で1ポンド=約2.60ドルに切り上げた。 1973年から1975年まで、セカンダリー・バンキング危機。これに関するイングランド銀行アーカイブ資料 が何ゆえか失われている。イングランド銀行は、ライフボートを通じて26金融機関を援助。また、イングランド銀行単独で14の金融機関にベイルアウト。1974年、BP株の買収などによりバーマ・オイルを救済した。1976年の銀行法でイングランド銀行は、銀行制度全体を揺るがす大失敗をやりそうな銀行を直接所有監督する権限を得た。 1977年、Bank of England Nominees Limited (BOEN) なる子会社を設立。株主が指名制で会社法との整合性を問われた。エドムンド・デル(Edmund Dell)がBOENを情報公開制度の例外であると主張。SAFE理事のロバート・オーウェン(Robert Owen)が、事実上イングランド銀行は子会社であるはずのBOENとその秘密株式によって支配または私物化されていると主張した。 1979年、国家債務、868億8500万ポンド。全預金受託機関に対する認可・監督権限を得る。翌年7月まで最低貸出金利17%。 1981年、イングランド銀行がバーマ・オイルから民事訴訟を提起された。原告は1974年に同行が行った買いオペで不当な利益が生じていると主張。イングランド銀行の取得したBP株の価格は、オペ時点の1億9700万ドルから急騰し、報道時に12億ドルや24億ドルにものぼった。
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