国際流動性に向かう投機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:32 UTC 版)
「イングランド銀行」の記事における「国際流動性に向かう投機」の解説
1833年の新特許法でイングランド銀行券が法貨となる。同年、クラウン・エージェンツ が政府により創設される。 1839年、マンチェスター商業会議所が、それまでの3年間における金利の恣意的な変更が為替相場を乱高下させたと主張。勢いづいていたチャーティズムを政府は翌年4月にかけ弾圧。また、この年に国内電信が敷設される。 1844年、改正されたピール銀行条例(当時の呼称は英蘭銀行条例、イングランド銀行条例)により中央銀行となる。鉄道狂時代が続く。 1851年、ロスチャイルド商会が貴金属精錬所を設立。この年、ドーバー海峡横断ケーブル開通。翌年にロスチャイルドの精錬所はイングランド銀行で2番目の公認精錬所となる。 1854年、高利禁止法が撤廃される。1856年、パリ宣言で私掠船の放棄が謳われる。 1857年恐慌。アメリカ株を中心に市場が弱気となる。イングランド銀行は単独で割引を継続。11月20日だけで100万ポンド近い法定限度超過。追ってピール銀行条例が停止した。同条例は再びイングランド銀行条例として存続し、以後、イギリスが世界の実質的な手形交換所と化す。条例の改正や公定歩合については日本でも官報に報じられた。 1861年、それまでイングランド銀行が25年ごとに国債所有者名簿を閉じていた慣習を廃止。 1866年の恐慌でベイルアウト。発端は割引商会オーバーレンド・ガーニー(現・バークレイズ)の失敗に関連した国際金融市場のしぼみと、イタリアでの銀本位制廃止。これにより横浜へ進出していた銀行支店が3つも撤退した。公定歩合10%。二度目の特許状停止。同年、ホンジュラスにおき鉄道スキャンダルさらに移民法制定。 1857年恐慌から1873年恐慌を経て、シティー・オブ・グラスゴー・バンクが詐欺的な業務の上に破産した1878年までの20年間は、金利の変更が実に年平均10回にまで及んだ。途中の1868年にはアルフレッド・ド・ロスチャイルドが理事に就任している。終わりの1878年には首相のローズベリーがネイサンの孫ハンナと結婚した。1875年ハックス・ギブズ(Henry Hucks Gibbs)が総裁となった。彼はギブズ商会の共同経営者であった。この会社は1981年に香港上海銀行が買収した。
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