国際海運株式会社
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1948年(昭和23年)、横浜市港北区南綱島に国際海運株式会社が設立され、機帆船による石炭輸送を行う。国際海運社長の溝口泰三(泰造)と国際汽船の間柄は不明であるが、国際海運の中に国際汽船出身者がいることを示唆する証言もある。1950年(昭和25年)末になって、国際汽船の名義を活用して海外定期航路の運営に乗り出す。国際海運は自前の船を持たず、「国際ライン」の名の下に飯野海運、三菱海運、東邦海運および日産汽船の4社が所有船を航路に提供する共同配船の形を取り、GHQの許可の下、インドやパキスタン、ニューヨークに定期航路を開設して不定期航路も運営した。しかし、国際海運の存在や運営方式に関しては疑念を示す声があり、1954年(昭和29年)2月19日の参議院運輸委員会でも取り上げられている。ところが、この中でやり取りを行った参議院議員一松政二と運輸省船舶局長甘利昂一の両人が、国際海運と国際汽船を混同している部分があり、この名前が似通った上にマークも国際汽船と同じものを使っていた国際海運は、政治や監督省庁レベルから見ても社名や運営方式の点で一種悩ましい存在だったと言える。このような声もあったものの、会社としてあまり体力がついていなかった太平洋戦争後の中堅海運会社から見れば「適切な事業体制」だった国際ラインではあったが、昭和29年6月3日に東邦海運が日本郵船と提携の上、不定期船専業に転換して国際ラインから離脱し、同じ年の10月21日限りで日産汽船も国際ラインから離脱。やがて飯野海運および三菱海運が独力で航路を運営できる目処が立ったのを機に国際ラインを解消した。その後の国際海運は、1957年(昭和32年)に飯野海運が株式の98パーセントを保有して事実上支配し、1965年(昭和40年)に国光海運と合併して国洋海運と社名を改めて川崎汽船の傍系会社となり、1967年(昭和42年)に五洋汽船と合併。神戸日本汽船と改称ののち、2000年(平成12年)に太洋海運と合併して太洋日本汽船となった。
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