国鉄総裁への転身
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1956年(昭和31年)、十河信二の依頼で日本国有鉄道監査委員長として実業界に復帰。その後国鉄諮問委員を務める。1963年(昭和38年)、国鉄総裁の起用にあたり、財界人の抜擢に執念を燃やす当時の池田勇人首相からの依頼により、十河の後任として第5代国鉄総裁に就任した。池田が財界人の起用にこだわったのは、当時池田の対中接近などで政敵になっていた佐藤栄作の国鉄への影響力を絶ち、公共企業体としての明朗な国鉄カラーを取り戻し、国鉄経営に民営色を強め、思い切った経営合理化を実施しようと考えたからであった。 在任中は、自ら「ヤング・ソルジャー」と称して「公職は奉仕すべきもの、したがって総裁報酬は返上する」と宣言し、国民の支持を得た。当初は月10万円だけ貰っていた。さらに鶴見事故の発生後は、給料を1円も受け取らず、1年あたり洋酒1本を受け取ったという。また国会質疑でも数々の発言を残している。国労と直接交渉したり、「黒い霧事件」の際は国鉄幹部に『接待ゴルフはやめなさい』とたしなめるなど、財界出身ながらも国鉄内部に対して堂々と意見を発した。 総裁在任中の1964年(昭和39年)10月1日に東海道新幹線が開通し、石田は開通式でテープカットを行っている。「赤字83線」廃止提言や名神ハイウェイバス参入など国鉄の経営合理化に取り組み、国鉄経営に民間企業の経営方針の導入を試行した。“パブリックサービス”の概念を徹底させ、「持たせ切り」を禁止した。また、運賃制度にモノクラス制を導入し一等車・二等車の呼称をグリーン車・普通車に変更させた。1965年には国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)の経営権を産経新聞社・フジテレビへ譲渡している。鶴見事故後の安全対策や連絡船の近代化、通勤五方面作戦の推進にも着手。一部で「このような大規模投資は利益に直結しない」と批判されたが「降り掛かる火の粉は払わにゃならぬ」と反論。東海道新幹線に続いて山陽新幹線の建設に着手したが、二期目の途中、昭和43年(1968年)10月に行われた大規模ダイヤ改正(ヨンサントオ)では当初廃止が予定されていた東京駅~大阪駅運転の夜行普通列車143・144列車を廃止を惜しむ世論を酌み、東京駅~大垣駅間に短縮した上での急行形電車化で運転を存続させることを決定。この普通列車は、のちの快速「ムーンライトながら」の先駆となった。1969年5月の運賃値上げ法成立の直後、高齢を理由に総裁辞任。多くの職員に見送られて国鉄本社を去った。後任には副総裁磯崎叡が就任した。 辞任後は再び晴耕雨読の日々に戻り、昭和53年(1978年)7月27日92歳にて死去。
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